『微笑』
「笑えません」
そう、目の前の女は言い切った。僕は本日幾度目になるか分からない濃い溜め息を吐き出す。
息を排出して空になった胸を埋めるように流れ込んでくるのは、「面接担当の奴は何処を見てこの女を採用することにしたんだろうか」という、止め処ない疑問の波だった。
「あのねキミ、何回も言うけどウチは接客業なんだから……まぁいいや、もう。今日はここまで」
研修生教育用のファイルをやや投げ遣りに閉じて終了の意を示す。
女は一礼すると、きびきびとした無駄のない足取りで部屋を出ていった。
肉体労働をしたわけでもないのに身体が酷く疲れている。
閉められた窓を気だるげに一瞥すれば、西日に照らされた桜の大木の周りだけ薄桃色の雪が降っているのが見えた。
「笑えないっつっても限度があるよなぁ。大体何で僕が研修生なんかに手取り足取り……」
と独り言ちてみるも、ちょっと空しい。
空しいという感情を抱いた自分がまた空しく思えて、ふと振り向けば、あの桜の木の下に、あの女が立っていた。それはもう、どこかの絵画にあっても不思議ではないような構図で。
立っているだけならまだしも、僕が驚いたのは、彼女が一瞬、微かに笑っていたことだ。
その顔は僕の今まで見たどんな表情よりも鮮やかで、そして――
「須藤、綾葉……か」
無意識のうちに、僕は女の名をなぞっていた。
そういえば、初めてかもしれない。きちんと声に出して形にしたのは。
彼女の微笑は、すぐにいつもの無愛想なものに戻ってしまったけれど。
今まで無味乾燥で白黒だった研修生教育の時間と、あの女とは、僕の中で少しだけ彩りを増した。
分厚いファイルを棚に捻じ込んで戻すと、ゆったりとした足取りで部屋を後にする。
明日はちゃんと、本人の前で名を呼ぼうと、心に決めながら。
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