深い深い、森の中。
全身を灰色のローブで覆った先導の男に連れられて、道なき道をただひたすらに無言で進む。
太陽から溢れ出す光は鬱蒼とした木々に遮られ、満ちる空気は肌を刺すような冷たさと、身体に纏わりつくような淀みを湛えている。
森の外とは質を異にする……此処はまるで、昼を嫌忌し夜に支配されることしか望まない非現実な世界のよう。けれどぞっと粟立つ身体の感覚が「現実の世界である」ことをまざまざと物語っていた。
(……これが私に架せられた試練だと仰るのならば、私は喜んで受け入れましょう。命尽きるその時まで戦いましょう。ですからどうか、)
先導の歩みに合わせて揺らめき薄暗い視界を照らす、粗末な篝火を暫しぼんやりと見つめた後。
私は固く目を閉じて首に掛かった十字架をきつく握りしめた。
(どうか、大いなる御力と慈悲を私にお示しください。――我らが永遠なる導き手、光明神ヴィーダ様)
Dearest ―Side:G― 01
慣れ親しんだ祖国ヴェルデを発たされてより、どれほどの月日が流れたのかは、分からない。十日目前後くらいまではきちんと記憶していたのだが、そうすることが無意味だと気付いた時に日を数えるのを放棄したからだ。
ともあれ先導という名の監視員の後に付いて来る日も来る日も歩き続け、ようやく今日、私は最終目的地であるこの森へと足を踏み入れた。
(正確に言うのなら最終目的地は森ではなく、森の中心に建つ塔、だけれど……)
胸中のひっそりとした呟きを知ってか知らずか。
不意に先方を行く男が振り返り、手にする篝火をある方向へと掲げた。
何を指しているのだろう、と光源の延長線を目で追うと、
「あれが、冥黒の塔にございます」
篝火がくっきりと照らし出すものを認識すると同時、厳かでいて無情なる先導の声音が耳朶を打った。
分かったというように頷きを返しながら内心で毒づく。全く意地の悪いことをしてくれる、わざわざ立ち止まって指し示さずとも良いではないか、と。
だって、あの塔は――
「それでは参りましょう。……聖女様」
私の反応を受け取った男は無機質な調子でそう告げ、踵を回らせる。
その後背を実に忌々しい心持ちで一瞥するも、状況は少しも変わらない。私は連れられるまま、この両脚を前に繰り出すより他に道が無いのだ。
(……本当に意地の悪い。もう私が“聖女”を名乗るに相応しい身でないと分かっていながら、こうして塔に向かうことが何を意味するのかを分かっていながら尚、そのような口が利けるなんて、ね)
観念して再度歩を進めながら、憂げに瞼を下ろせば。
こうなるに至った原因の出来事が、残酷なほどはっきりと脳裏に映し出された。
+ + + + +
「国が、統合する……?」
修道院長から聞かされた言葉を、私は無意識のうちに繰り返していた。
義務であり日課である礼拝を終えた後、彼に引き止められた時点で何事かが起こったのだろうと身構えてはいた。しかしその構えを乱すに充分すぎるほどの、予想を遥かに超えた話だ。驚くなと言われても無理がある。
思わず息を詰め動揺する私を宥めるように、修道院長は努めてゆっくりと先を接いだ。
「勿論今すぐに、とはいかないだろう。だが近い将来、ヴェルデを含めた連合国家の七つが統一されるということは既に決定したそうだ」
「そのような話が進められているとは、ちっとも……」
「長年密やかに噂されてはいたのだけれどね。尤も君を始めとするシスター達は皆、滅多に修道院から出られんのだから、知らないのも当然だ」
「新しい国について、他には何か公表されているのですか」
「名はアウローラ、王国となるらしい。……問題は、その政治体制だ」
顔面を苦渋の色に染める彼の様子から、本題はここからなのだと察知して姿勢を正す。
今まで確固たる連係を組んでいたとはいえ独立した七国が一つに纏まるなど、大事も大事だ。けれどただそれだけの話をするのならば私一人を呼び出す必要はない。皆を集めた時に話せば時間も手間も省ける。
そうしないのは偏に「私にのみ先に聞かせなければならない」何かがあるからだ。
「政治体制と仰りましても、王国になるのですから一人の王が君臨する形を取るのでしょう?」
「ああ。しかし我々にとっては厄介なところが王家を司ることになった」
「厄介な、とは……、まさか」
すぐに思い当たったのはヴェルデと国境を接する、隣国アズルのことだった。
アズルは「七国のうち最も栄え、最も強き軍隊を備える」と専らの評判であり、事実その国力の高さで連合国家の長のような役割を担ってきた。流通においても中心的存在となっている故、彼の国が無ければ他の六国の経済が立ち行かない、とさえ言われている。普通に考えれば一王国となる暁にはアズルを治めてきた家がそのまま王家の地位を掴むだろう。
けれど日々を信仰に捧げる私達にとってまずいのは、アズルがヴェルデとは異なる教義を篤く重んじる国である、ということだった。アズルの家がアウローラの頂点に立ち政治を執るとなれば、その勢いに圧されヴェルデで広く信じられている教義はまず弾圧されると見て間違いない。
抱え持った予察のままに唇を戦慄かせれば、修道院長も苦々しげに口元を歪める。
「そのまさかだ。公会議における宗論も既に終局に近いが……我らが宗派の勝機は無きに等しい」
「では、私達は……ヴェルデの民は、」
「アズル側に改宗すれば咎めはない。裏返せば、改宗しない者は異端として破門する、ということだ」
突如衝きつけられた悪夢のような現実が両肩に重く重く圧し掛かる。意識して力を込めなければ今にも膝を折りそうだった。
けれど親代わりであり恩師である修道院長の前だ、これくらいのことで取り乱してはならない、と己を叱咤してともすれば俯きそうになる面を上げる。
――私の予察が正しいのならば、悪夢はこれだけで収まりはしないはずだ。
「私は一度信じた道を最期まで貫き通す所存です……おいそれとアズルで説かれている教えに乗り換えるような真似は出来ません」
「……」
「どうぞ、先をお願い致します。私を一人部屋に呼んだのには訳がお有りなのでしょう?」
「……」
「私は例え火炙りに処されようとも、それで信心の深さを証明出来るとあらば……本望ですから。どうぞ、先をお願い致します」
「……すまない」
長い沈黙を裂いた、毅然とした彼らしくない、小刻みに震えた謝罪。
返しを出しあぐねているうちに、修道院長は此方に見られたくないとでも言いたげに顔を逸らした。
「すまない。本当に、すまない……!」
「……やはり、私は。火刑に処されるのですね」
「違う。恐らくはそれよりも重い……最も惨い、刑が下される」
「!」
「君がアズル側に改宗しないとなれば、数日後にも異端審問にかかる可能性が高い。心して、おきなさい」
その言の葉に涙が混じっているように感じられたのは、きっと思い違いではない。顔を背けていても分かる。彼は、泣いている。
自分の身に来るであろう処遇よりも、今はただそのことが辛くて悲しくて。
ほんの僅かな慰めにすらならないとは解っていつつも、私は部屋を去りかけた彼の背に努めてはっきりと声をかける。
「私は曲がりなりにもヴェルデで唯一、“聖”を冠することを許された女ですもの。アズルから異端と見做され、どのような咎めを受けようとも……絶対に屈さず、誇り高く前を見据え続けます」
「……そうだな。それでこそ私が知る、聖女グロリアーナだ」
以前目を合わせないままではあったが、そう答える彼の声の震えは若干和らいでいるような気がする。
私は深々と頭を下げ、軋む木製の扉を開けて出ていく修道院長の姿を見送った。
+ + + + +
聖女。
何故私のような身分もそこそこで特に取り柄も無い、凡庸な女がそう称されるようになったのかは、分からない。
しかし気付いた時には既に私は聖女として扱われており、物心が付くと同じくらいの時にはヴェルデでも指折りの、この修道院へと入れられていた。
その際に賜った名が、グロリアーナ。光明神様にお仕えし世に栄光をもたらす礎となれ、との願いが込められている、身に余るような輝かしい名前だ。
最初は家族と離れるのが寂しくて堪らなく、泣いて周りを困らせていたが、毎日の祈りのうちに自ずと進むべき道を理解した。聖女と言われる所以ははっきりせずとも、私は信仰に生きる定めにあるのだと。
それからは聖女グロリアーナという呼び名に恥じない人間になろうと、他の誰よりも修道に励んだ。修道院内で妬みやっかみを買ったりからかわれたりすることも無いわけではなかったが、そんなものには我関せず一意専心に求道していたところ、何をせずとも向こうから引いていき、終いには手の平を返すが如く私に頭を垂れてくるようになった。
更にこの修道院に聖女がいる、という話は人から人へ伝わり、今やヴェルデ全土に及ぶまで広がっているらしい、と修道院長から聞いたのは随分と前のことだ。
とは言え私自身は己の現状に満足出来ているわけではない。私はまだまだ修道女として未熟であるし、神学を極めているとは到底言えない。飽くなき努力を以て常に上を目指さなければ私の目指す聖女にはなり得ない。
けれど私の意志はともあれ、外から見た私は聖女らしく映っており、また聖女として認められてはいるのだろうな、とは思っていた。
+ + + + +
(それがこのような形で証明される日が来ようとは、夢にも思わなかったけれど……)
豪奢な広間の奥、壇上で悠々と口角を吊り上げているアズルの総大司教を目一杯に睨み、静かに咬牙する。
異端審問にかかった私を待ち受けていたのは、修道院長の言うとおり、最も惨い刑罰だった。
「哀れだな、グロリアーナ。どうだね、今からでも改宗しては? 我々は喜んで貴女を同胞として迎えるぞ」
「結構です。……何があろうと私は信じた道を変えたりしませんから」
「流石聖女様、ご立派なことだ。では再度申し上げよう。――異端者グロリアーナには、冥黒の塔の悪魔に無期限で服仕することを命ず」
総大司教の高らかな宣告に、周りに控えていた大勢の神官達は立ち上がり、割れるような拍手と歓声を送る。
脳髄にまでガンガンと響く不快な大音量を一身に受けながら、私は下された刑を呆然と復唱した。
「冥黒の塔の悪魔に、服仕する……」
「拷問の末に肉体を焼き払って炭と骨に変え、その骨すらも粉々に砕いて川に流し、存在を抹消する」火刑を超える刑。
それが、「冥黒の塔に封印された最凶の悪魔の下僕と成り下がる」刑だった。
光明神に身を捧げてきた者にとって悪魔の中の悪魔に服従させられるのは最も屈辱的で、死すら生温いとさえ思える酷な仕打ちだ。
彼らはその仕打ちをヴェルデの聖女である私に施すことで、自分達が信ずる宗派の完全なる勝利を世に知らしめると同時に、王国の民への見せしめとするつもりなのだろう。やり方の汚さには反吐が出る思いだが、アズルの優位性を確かなものにする上でとても有効な手であることは否応なしに理解出来る。
「それでは精々、冥黒の塔の住人となるまで其方の宗派のままに修道することだな。地に堕ちた異端の聖女グロリアーナよ」
卑下た笑い声と共に、総大司教は贅を尽くした長衣を翻して広間を後にした。彼に続き、取り巻いていた沢山の神官達もそれぞれに嘲笑を吐きながら去っていく。
「……あぁ、」
先程の喧騒から打って変わって訪れた静寂の中、一人ぽつんと、だだっ広い、あまりにも眩すぎる広間に取り残されて。
私はがくりと膝を付き、着慣れた紺の修道服ごと、己を掻き抱く。
「私、わた、し、は……」
言葉にならない、言葉に収まりきらない巨大な何かがどろどろと胸で渦を巻く。視界がぼろぼろと崩れていく。
「……、っ、ああぁあぁ!!」
恐らく、後にも先にも。
この時ほど自らが拠り所としてきたものの脆さを、身を切り刻まれるような痛みを伴って嫌というほど感じたことは、なかっただろう。
+ + + + +
瞼を上げれば、私はまだ変わり映えのしない景色に包まれて、先へ先へと進んでいた。
刻一刻と迫る刑の執行を控え、緊張の糸は張り詰めるばかり。「絶対に屈さない」との断言を覆すつもりは毛頭ないが、極限まで追いつめられた精神は今にも頽れそうだった。
と、木々の切れ間が著しく増加し、足元も緑の草花でなく赤茶けた土になっていることに気付き、私はごくりと唾を飲んだ。
続いて眼界を塞ぐようにして現れたのは、大きすぎないが小さすぎもしない、古くて頑丈そうな建物。今更確認せずとも分かる。此処が最終目的地、悪魔の住まう場所――冥黒の塔、だ。
先導は塔の入口である鉄扉の前に私を立たせると、数歩下がって一礼する。その所作は機械的で無駄が一切無いように思われた。
「到着致しました。この先は聖女様御自身でお進みくださいませ」
「……分かりました。貴方はこのまま帰られる、のですよね」
「はい。そうなりますが」
「今歩いてきた限りでは、この森はとても暗いようですから……お怪我などなさらないよう、お気をつけて」
例え自分にとっては刑の執行を手助けする者であれど戻れば家族や仲間が待っているのだろうと思い、そう手向けると、灰色のフードの下、彼はほんの少しだけ表情を変えたようだった。
「聖女様も……貴女様の目指される光を、どうかお忘れなく。お迎えに上がれる日を、お待ちしております」
再び軽く辞儀をすると、先導は足早に森の中へと消え、背景と同化していった。
その姿を追ったついでに辺りを見回してみれば、四方は全て同じかと見違うほどに似た風景。上を仰げば背丈の高い木が空を大きく侵食しており、星を頼りにどちらが北か南か、といったことを判断するのも困難であるように思われる。
(逃げるのは不可能、か。……彼の迎えで此処から出られる日なんて、来るのかしらね)
刑の執行は無期限、つまりは早く釈放されるかもしれないし、一生釈放されないかもしれないということだ。
私の立場と状況を一考すれば十中八九終身刑だろうが、先導もああ言ってくれたのだから……最後まで希望を捨てるわけにはいかない。
早鐘を打つ心音を出来る限り抑え込み、大きく深呼吸をすると――私は鋼鉄の戸に付いた取っ手を鳴らした。
「……誰だ?」
一間を置いて返ってきたのは、男の声だった。
悪魔の声音にしては随分と普通なものだな、とは思えど依然として気を張ったまま、問いかけに答える。
「今日からこの塔で暮らすことになっている、ヴェルデのグロリアーナです」
「……!」
名乗るや否や、いかにも重たそうな扉が耳障りな音を奏でて開かれた。
いよいよお出ましか、と自然と作った拳に力を込めた私の目に飛び込んできたのは、夜空を紡いだような留紺の髪をきっちりと一つに結い、金色の双眸を携えた青年だった。私が物珍しいのかどうかは知らないが、絶句したままじっと此方を眺めている。
しかし精悍な顔立ちが印象的ではあるが、見てくれこそ人と何ら相違ない。本当に眼前の男が自分が仕えることになる悪魔なのか、いや最凶の悪魔と聞いて想像を逞しくしてきたのが間違いだったのか、と訝しんでいると、彼の後方でもう一つの影が揺らめいた。
「レヴィン? 初対面の、しかも可憐な女の子をそんな不躾に凝視してはいけないよ。失礼になるからね」
耳に心地良い柔らかな調子と共に、レヴィンと呼ばれた青年の後ろから現れた全姿に――私は、目を奪われる。
惜しげもなく晒された白磁のようなきめ細かい肌、すらりと伸びた手足、均整のとれた唇。その艶やかさを一層際立たせている、シンプルな漆黒のドレス。切れ長な瞳は薄紫で、一点の曇りも無い紫水晶を彷彿とさせる。月光を集めたかのように豊かで眩い銀の髪と精美な髪飾りは、彼女の動きに沿ってさらさらと舞い踊っている。
正に妖艶という言葉の似合う美女は、優雅な微笑みを添えて口ずさむかの如く軽やかに囁いた。
「初めまして、グロリアーナ。この子はレヴィン、僕の下僕だ。そして僕はデモニア……貴女達が呼ぶところの、最凶の悪魔だよ」
悪魔という単語が出されたことでようやく我に返った私は、呆けていた口を慌てて引き結んだ。
まさかこの綺麗なひとが、と吃驚する一方で、やはりそうだったか、と納得の意が沸き起こる。直感ではあるが、彼女は纏う空気が人とは一線を画しているように思えたからだ。
容貌にしろこの空気にしろ形容し難いものがあるが、無理矢理一言に括るとすれば「気高い」、といったところか。
だがどんなに美しかろうと気高かろうと、悪魔は悪魔だ。内側はどれだけ残忍か分かったものではない。
情けなくも彼女に見惚れてしまった己にそう言い聞かせ、冷静さを取り戻すと、怯めばすぐに惹き込まれそうな双瞳と真っ直ぐ向き合う。
「……初めまして。訳あって貴女に服仕させられることになってしまったから……不本意だけれど、お邪魔させていただきます」
「事のあらましは大体知っているよ。何でもヴェルデの聖女、だったそうだね。まあこの塔に送り込まれたからには最早大罪人でしかないのだろうけど」
「……私は罪など犯していません。確かに我が身は冥黒の塔で貴女に傅くことで悪に染まるでしょう。けれど常に光明神様がお守りくださっている我が魂は、決して悪には染まりません」
言い放ってから、まずいと気付くも、時既に遅し。大罪人、という句に血が上ってしまったとは言え、早速悪魔に逆らい光明神様について口走ってしまうとは迂闊にも程がある。
ここで早々に消し炭にされたら後世での笑い話になりそうだな、と身を固くするも、鼓膜を震わせたのは至って穏やかな旋律だった。
「貴女がそう思うのなら、きっとそうなのだろうね。さあ、長い道のりで疲れただろう? すぐ休めるよう、部屋に案内するよ。レヴィンも付いておいで」
悪魔らしからぬ温厚さ加減の対応に拍子抜けしているうちに、彼女は下僕の青年を側に呼び寄せ、硬質なヒールの音を反響させながら塔の内部へと歩み出している。
二人に置いていかれないよう小走りで扉を潜れば、黒鉄色のそれは開いた時と同様耳障りな音を奏でてひとりでに閉まり、元の位置へと身を落ち着けて外界を完全に遮断したのだった。
+ + + + +
こうして、冥黒の塔という閉鎖空間での、不可思議な共同生活が幕を開けた。
けれどこの先に待つものが何であるかを、この時の私が知っていたなら、と叶わぬ願いを何度描いたか分からない。
――そうすれば私は真の恐ろしさを知らないまま、優しい刑罰の中でただ溺れているだけで、済んだだろうに。
To be continued ……