どうして俺は、ここに居続けなければならないのだろう。
 どうして俺は、彼女に玩具として気に入られているのだろう。
 どうして俺は、罪深いと、穢れを負っているとされているのだろう。

 答えなど出ないと、とうの昔に諦めたはずなのに、今も尚止むことなく繰り返される「どうして」。
 次第に錆び付いた苦さを増していく、けれど朽ちることのない鋭さを保って繰り返される「ドウシテ」。
 鋼鉄の鎖の束よりも重たい、焼けるような喉の渇きにも似たそれらを全身に提げて引きずったまま、ぐるぐると同じところだけを回りに回って。
 前進しているのか後退しているのか、後ろを向いて進んでいるのか前を向いて戻っているのか、そんなことすらも分からずに問い続けた先。


(……どうして俺は、“俺”なのだろう)


 ある時ふと浮かび得たたったひとつのものもまた、答えの出ない問いでしかなかった。




Dearest ―Side:L― 01




 閉じた瞳の上、目蓋に長く、柔らかく、冷たい口付けを感じて、俺は朝が来たことを、新しい日が来たことを知る。
 “外”の世界では太陽が昇って空が明るくなることで朝を感じ取るという。
 でもここでは、冥黒の塔とその周りに広がる深い森では、朝も昼も夜も、明るさなど無きに等しい。ここに入れられて長い年月を経た俺の身は、今となってはもう自分の感覚に頼って時間を知ることができない。俺の脳は、陽の光がどんなものであったのか、今となってはもう思い返すことすらできない。


「おはよう、レヴィン。……可愛い僕の下僕」


 そんな俺に毎日朝の証しを告げるもの。
 それが、彼女――整いすぎていて逆に怖ささえ感じるほどに美しい悪魔からの口付け。そして「逃げることなど許さない」と言うように、逃げ場のない現に俺の霞んだ意識を引き戻し繋ぎ止める、この言葉だった。
 目蓋を押し上げ、視線だけをゆるゆると右に向ければ、いつもと同じく傍らに寝そべって気だるげに頬杖をついている彼女は、枕を伝って流れる俺の髪をその指先にくるりと絡ませ、自由に遊ばせている。悪魔は一睡せずとも生命活動を十二分に行えるらしいが、彼女は毎夜毎夜、別に何をするわけでもなく俺の隣で横になっていた。
 いや、「俺が彼女の隣で横にならされている」と言った方が正しいだろうか。俺は彼女の“下僕”で、彼女の寝台で眠りを取らされているのだから。

 否応なしに身体を起こし、ナイトテーブルの上でぼんやり光る豪奢な櫛を手にすると、彼女の豊かな銀髪を余すところなく梳いていく。最初は強制されてやっていた行動も朝一番の習慣として定着してしまったな、それにしてもいつもながら梳く必要など無い滑らかな手触りと艶なものだ、と頭の片隅で思いながら。
 精微な髪飾りをすっと挿して終了を告げると、「ありがとう、やっぱりレヴィンは僕の髪の扱いが上手いね」とくすくす笑いが転がった。無言で櫛を手渡すと、今度は彼女が俺の沈んだ紺色の髪を梳き、一つに結い上げていく。


「貴方は全て僕のモノだよ、レヴィン。髪の毛一本、爪の先に至るまで、ね」


 互いに髪を梳く、儀式のようなこの日課は、いつもいつも俺を縛めるこの囁きで締めくくられる。
 それに対して同意する気は露ほどもないが、正面きって反抗する気もない。笑うにしろ泣くにしろ叫ぶにしろ、喜ぶにしろ嫌がるにしろ、俺が何かしらの反応を示せば、それらは全部彼女にとって最上の悦びに直結する。だからこそ下手な抵抗は無駄以外の何者でもないのだと、もう随分と前に諦めた。
 だがそもそも、うんともすんとも言わずとも、彼女は特に飽きることも残念がることもないようだった。彼女はそう、いつでもただ満足そうに微笑(わら)って、最後に自分が纏め上げた髪に愛おしげに手櫛を通し、残酷な唇で捕らえるだけ。そして俺はそう、いつでもただ黙ってそれに囚われるだけ。

 こうして変わらない、変わることのない、変わることなど在り得ない毎日が音も無く進行していく。



+ + + + +



「あと一週間ほど経ちましたら、此方にヴェルデの聖女であるグロリアーナ様が来られます。つきましてはご準備の方を宜しくお願い致します」


 “変わらない、変わることのない、変わることなど在り得ない毎日”。
 音を立ててそれを破ったのは、定期的に冥黒の塔へ食料などの物資を運んでくる男の一言だった。何の前触れもない、あまりにも唐突な話だった。呆気にとられ立ち尽くしていると、彼は役目を終えたと言わんばかりに踵を返している。


「待て、今、何と?」


 慌てて引き止めると、頭から足先までを灰色のローブで覆った男は、フードで隠れて表情の見えない顔だけをこちらに差し向ける。


「聞こえませんでしたか、申し訳御座いません。それでは再度繰り返させていただきます。あと一週間ほど経ちましたら、此方にヴェルデの聖女であるグロリアーナ様が、」
「もう良い。……どうして聖女がここに来る? そんな人間とは縁遠い場所だろう」
「“外”からの言伝をお渡しする以外のことは、私にはできかねます。何卒ご容赦を」
「……そうか」


 人のことを言えたものではないが、こいつは俺にも増して感情の起伏なるものなど持ち合わせていないように見える、人形の如き人間だ。これ以上こいつを問い詰めたとて、何の情報も得られないだろう。
 そう諦めて、世界を区切る重たい扉を閉める瞬間、


「ですが、どうか諸事にお気を付けて。此処で飼われて長い貴方様には――」


 背を向けた彼からの、微小な呟きがじわりと耳を掠めた、ような気がした。



+ + + + +



「そろそろ来るようだね。レヴィン、部屋の用意はちゃんと整っているのかい?」
「一通りは」
「そう、なら良いよ。聖女グロリアーナ、興味は無いけれど……まあ、一応楽しみにはしておこうかな」


 七日後、少しずつ不変が綻んでいた塔の中、シンプルながら上品に着飾った一室で。
 彼女は実に淡々と言葉を紡ぎながら、実に悠々と長き脚を組み、ロゼのワインを口に含んでいた。
 差し出されたグラスに追加分を丁寧に注ぎながら、どうして聖女などという人間がここに来ることになったのか、と、ずっと抱え持っていた問いを漏らせば、純度の高いアメジストの双眸がすっと細められる。


「貴方が僕に仕えよと命じられた理由を考えれば、答えなどすぐに導き出せるはずだ」
「……“罪”と“穢れ”を負っているから、か? “聖女”なのに?」
「平たく言えば、聖女であるのに聖を冠するに相応しくない罪人と判断されたから、だろうね。それ以上に、邪魔者や厄介者には蓋をして閉じ込めて、排除したことにしたいのだろう」
「……」
「何が正義で何が罪かなんて僕には関係ないし、レヴィンさえ僕のモノであるのなら他は拘らないけれど。いつの時代も身勝手な子達が無数に蔓延っているものだとは思うね」


 透き通った薄桃色の液体を、悪魔の名に似つかわしくないほどの真白な手で緩く揺らし、そっと飲み干す彼女。見慣れたその優美な仕草を横目に、俺はもうすぐ来るであろう“聖女”に思いを巡らせた。
 聖なるもの、穢れないもの、光明神の類稀なる恩寵を受けるもの、俺とは正反対の位置に身を置くもの。それでいながら罪を押し付けられたもの、都合が悪いと疎まれたもの、ここに送り込まれ繋がれるもの、俺と同じ位置に身を捧げることになるもの。遠いようで近い存在。
 果たして“聖女”は、完成し完結しきってしまった俺を、冥黒の塔を変えるに足るものなのだろうか。

 と、その時、彼女はさらりと零れ落ちる髪をかき上げて静かに席を離れた。そのまま部屋の出口までゆっくりと歩み、そして伏し気味の流し目で俺を呼ぶ。


「さあ、新しい住人が到着したようだ。これから生活を共にする者として、きちんとお出迎えしなくてはね?」



+ + + + +



 地階に辿り着くとすぐに、取っ手で戸を叩く音が金属が軋むノイズ入りで内に飛び込んできた。
 期待と恐怖が複雑に混じりあって震える己に一呼吸を与え、唾をごくりと飲み下し、開口する。


「……誰だ?」
「今日からこの塔で暮らすことになっている、ヴェルデのグロリアーナです」
「……!」


 緊張がありありと浮かぶ、固くやや高めな旋律に「本当にやってきたのだ」と実感し、すぐさま鈍色の扉を引き開けると――そこには群青の修道服に身を包み、首から十字架を提げた華奢な女がひとり、地を踏みしめるようにして立っていた。
 植物の息吹を思わせる鮮やかな緑の両目とかち合った刹那、稲妻にも例えられそうな衝撃が俺の髄を貫く。


(ああ、君は、君こそが……確実に冥黒の塔を、俺を変えるものだ)


 罪人としてここに連れて来られたとは思えないほどの、誇りが垣間見える真っ直ぐな視軸。どんなに清くなりたいと願っていくら純白の衣服を纏えども、俺には決して掴むことができない、元来から備えた高潔な雰囲気。俺の忘却の彼方に消え失せていた、穢れにも諦観にも蝕まれていない、光華。


「レヴィン? 初対面の、しかも可憐な女の子をそんな不躾に凝視してはいけないよ。失礼になるからね」


 絶句する俺の異変をいち早く察知した彼女が影からその身を現すと、眼前の少女の意識はそちらに惹きつけられ、釘付けになったようだった。
 無理もないことだと思う。十数年前、彼女を初めて見た時は、俺もその人間離れした整い方に気圧されたものだ。そして今現在に至るまで、気圧され続けていると言っても過言ではない。


「初めまして、グロリアーナ。この子はレヴィン、僕の下僕だ。そして僕はデモニア……貴女達が呼ぶところの、最凶の悪魔だよ」
「……初めまして。訳あって貴女に服仕させられることになってしまったから……不本意だけれど、お邪魔させていただきます」
「事のあらましは大体知っているよ。何でもヴェルデの聖女、だったそうだね。まあこの塔に送り込まれたからには最早大罪人でしかないのだろうけど」
「……私は罪など犯していません。確かに我が身は冥黒の塔で貴女に傅くことで悪に染まるでしょう。けれど常に光明神様がお守りくださっている我が魂は、決して悪には染まりません」


 眉を吊り上げ、怒気を露わにしてはっきりと言い切る姿には、周りからどのような酷評を受け、烙印を押されようとも聖に属する眩しさがあった。
 俺に遠いようで近い、けれどやはり遠い存在。身体は同じ場所に在るはずなのに、本質は真逆の場所に在る人間。


「貴女がそう思うのなら、きっとそうなのだろうね。さあ、長い道のりで疲れただろう? すぐ休めるよう、部屋に案内するよ。レヴィンも付いておいで」


 彼女に呼び寄せられて細い背を追いながらも、俺たちの後ろからついてくる少女の気配が新しくて、溜まり膿んだ淀みを裂くようで、そのことに言いようのない陶酔と恍惚を覚える。
 同時に俺を形作る芯の奥深くから、言い知れないどろどろとした嫉視と妬心が這い出てくる。どうして俺と君は決定的に何かが違うのだろう。どうして俺は君のように光を持つことを赦されないのだろう。どうして、どうして、ドウシテ。

 しかし俺は一先ず、湧き上がる醜い「どうして(ドウシテ)」からは目を逸らすことにした。
 「変化が訪れた」。この時の俺はその事実ひとつで、僅かであっても今までの“俺”から解放される不思議な高揚感を噛みしめていたのだった。



+ + + + +



 君という“変化”は表面的なもののみにとどまらず、厚く塗り固められて動いていた歯車を崩し、壊すことになるだろう。
 膠着状態から(くびき)を絶たれた冥黒の塔の中では、君も彼女も俺も、望む望まないにかかわらず移ろっていくことになるだろう。でも、これだけは先に明言しておく。

 ――どれほど君が変わっていこうとも、例え君が今の君でなくなったとしても、俺は永久に君という存在を狂おしいほどに求め続ける、と。





To be continued ……