あたしは人形だけれど、気づいた時には歌をたくさん知っていて、そして歌うことが好きだった。
 童謡、流行歌、クラシックやオペラ。自分の国の曲もそうでないものも、たくさん。
 あたしが作られた工房では常に曲が流れていて、それが体に染み込んだのだろうか。

 あたしの所有者であり主は、精悍な顔立ちの、人形遣いの男の人。
 一番最初に出会ったとき、ひどく憔悴しきった顔であたしを見て、なぜだか分からないけれど、辛そうな、泣きそうな、それでいてどこか狂ったように嬉しそうな表情に顔をくしゃりと歪めた。そして恐るおそる手をとって、それからぎゅっと抱きしめてくれた。直感でこの人の元なら大切にしてくれそうだと、人形心に安心したことを覚えている。

 だけどこの主には、あたしの声も、歌も、まったく届かなかった。
 よく話しかけてくれるのに、あたしの返事は彼には聞こえない。毎日丹念に肌や髪や瞳の手入れをしてくれて、かわいいお洋服をたくさん着せてくれて、音楽を聞かせてくれて、何をするにも一緒に連れていってくれて、一介の人形とは思えないほどに大事にしてくれて。本当に大好きで、本当に心から感謝しているのに、どんなにお礼を言っても彼には伝わらない。

 気持ちは確かにここにあるのに、表情もない、体も動かせない、言葉も分かってもらえない――自分がただの「静物」であることが、この気持ちがまるで最初から存在しないように無情に時が流れていくのが、とてももどかしかった。彼は天与の才があるような威厳に満ちていたけれど、半面寂しげな影をもつ人だった。その度、何度彼をこの手で支えたいと願ったことだろう。何度「あなたはひとりじゃない」と、「あたしがそばにいるよ」と、気づいてもらえない声をはり上げたことだろう。
 

 でも、例え主の耳に入らなくても、あたしは来る日も来る日も歌を歌い続けた。
 あたしの気をまぎらわせ、なぐさめてくれるのは歌しかなかったし、それに昨日まではダメでも、もしかしたら今日はこの声に気づいてくれるかもしれないと、心の奥底では諦めきれずに、ずっと淡い期待を寄せていたのだ。

 けれどその思いが報われることはなく。
 彼がお父さんとなり、おじいさんとなって、そこからまた長らくたったある日。


〔あれ、その人形なんか喋ってるよ〕


 遠い遠い昔に抱いた淡い期待も過ぎた年月に埋もれて、もはや歌うことがただの習慣となった頃。
 転機は予想もしない形で、突然訪れた。


+ + + + +



 あたしの声を聴き、心を通わせることができたのは、主の孫で、まだ幼い男の子。
 彼とあたしは、男の子を通せば話せるようになったけれど、なぜだかお互い、男の子に自分の言葉を託すことはなかった。
 あたしなんてあれだけ気持ちを伝えられないことにモヤモヤしていたのに、いざ伝えられるチャンスがあっても活かさないなんて――でも今振り返れば、彼もあたしも「男の子の言葉を借りてしゃべる」という選択肢は選べなかったのだろう。あまりに長い時間一緒にいたからこそ、その思いは男の子の口に乗せるには重すぎる。やっぱりしゃべるのなら、自分の声で、自分の言葉で、直接伝えなくちゃ意味がない。

 だから、彼があたしを孫に託してほどなくこの世を去った時も、幾重にも折り重なる悲しみと寂しさはあれど、悔いはまったくなかった。


〔じいちゃん……どこに行っちゃったんだろう……?〕


 ――それよりも。
 周りの大人たちによって気ぜわしくも粛々と行われた葬儀の後。泣きはらした大きな目にまだいっぱいの涙をため込んで、不安げにあたしをぎゅっと抱きしめる男の子の腕の中、「それよりも、あたしがしっかりしなければ」と心を決める。男の子には両親はおらず、身内は祖父である彼だけ。酷なことだけれど、彼を失って生きていくのは決して易しいことでないことは事実だし、そんな中でもあたし達は生きていかなければならないのも、また事実だ。


〔あのね。あなたのおじいさんは、ここよりもずっとずーっと、遠いところに行ってしまったの。とっても辛いことだね……あたしも辛いよ。だから今はたくさん悲しんで、たくさん泣こう。でもそこで立ち止まっちゃダメ。たくさん泣いて少しすっきりしたら、今度はこれからのことを考えよう?〕
〔……うん。じゃあアンティーク、何か歌を歌ってくれる? じいちゃん、アンティークの歌声は世界一だって言ってた……きっとアンティークの歌が聞こえたら嬉しいと思うんだ〕
〔うん。じゃあ、とびっきりの歌を歌うね――〕


+ + + + +



 言葉を交わし思いを伝えあうことは一度もなかった、あたしの大切な、大好きな主。
 これからは彼の忘れ形見であり、新たな主である男の子と心を通わせて、支え、助け、力を合わせてともに歩んでいく。
 あたしにしかできない、彼への愛情と感謝を全部捧げた、恩返しの始まりだ。


〔大丈夫。あなたはひとりじゃない、あたしがそばにいるよ。――セイジ〕






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