「シンムゲゲ ムゲゲコ ムウクフ……」


 濃淡の効いたグレーでぐるりと取り囲まれた空間の内側。
 ふらり、ふらりと歩みながら、どこか遠い場所で有難いとされているコトバを、片言ながら口ずさむ。
 ふと掌に視線を落とせば、蛍光灯の無機質な光に照らされたモノが、蠢くかのように怪しくチラチラと煌めく。


「まさか、本当に三つ揃えて持ってきてくれるなんて、ね」


 呟き、目的のモノを手に入れられた幸運を祝してそっと口元を緩める。
 キレイなビスクドールを抱えた青年と、線の細い少女と、極彩色に落ち着きを乗せたピエロと。振り返ってみれば、彼らはボクの店の最後の客だった。店じまいの直前にして偶然にも良い客をつかんだものだ、としみじみ唸る。


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 店――そう、ボクはとある商売をしていた。
 店の名は、“恐怖屋”。商品は、“恐怖、その先にある強さ”。
 そこでボクは訪れる客一人ひとりに対し、各々の弱さを補う強さ、その強さを引きだすに相応しい恐怖を選んで提供していた。カッコつけて自称するなら“恐怖コーディネーター”といったところだろうか。
 店の内容が内容なだけに、さらに立地条件がジャマをして、繁盛していたとは見栄を張っても世辞を使っても言えなかった。けれど己の弱さを克服した上での強さを得る必要がある者は、早かれ遅かれ、必ずボクの店に辿りつく。その人が望む望まないにかかわらず、必ず。

 もっとも、辿りついたからといって絶対に強さを得られるのかと訊かれれば、そうじゃない。説明を聞いてシッポを巻いた客はそれなりにいた。さらに、果敢に挑戦するも挫けてしまう客は数知れず。
 が、最後の客であったあの一行は見事、全員がボクの呈した恐怖に打ち勝ったのだ。パッと見て期待はしていなかっただけに、あの時は内心ビックリしたものだった。
 だから再び彼らと出会った時、ダメで元々を承知で、ボクは頼んだのだ。ボクの望むモノを三つ見つけてきてほしいと。
 まあ、今だから大口を叩けることではあるものの、何となく彼らなら持ってきてくれるような気はしていた。なんといってもウチの秘蔵であった“あれ”をも超える力の持ち主たち。「見つけるのは簡単なことではないだろうが、不可能なことではない」と踏んだボクの読みの勝ちだ。


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 “シンムゲゲ ムゲゲコ ムウクフ”。有難いコトバは、心にわだかまりがない故に恐怖のない状態を至上だと謳う。
 魅力のある境地であるのは分かるが、本当にそうなんだろうか。人はわだかまりを解消し、恐怖に打ち勝ってこそ強くなれるし、高みを目指せる。仮に恐怖のない世界が実現したとしても、そこはどんなにか綻びやすく、色のない、脆弱な場所だろう、とボクは思う。
 そう思うのはひとえに、ボク自身が恐怖に縛られる感覚を持たずに生きているからだろう。

 ボクは、恐怖をしらない。
 もちろん頭では知っている。恐怖とは強い不安にも似た苦しみのひとつ。何が恐怖の対象となり得るのかはほぼ網羅しているし、目の前の人物がどんな恐怖を乗り越えたいのかについても的確に当てることができる。ダテに“恐怖屋”を長くやってたワケじゃない。
 だが膨大な恐怖の知識と相反するように、ボクの身体と心は恐怖という感情を一度も抱いたことがない。他人が感じる戦慄を脳で噛み砕き理解することはできるけれど、自分は戦慄を欠片も、微塵も感じることはできない。
 そんな時に、まだこの目で見ていない“恐怖の対象となり得るモノ”についての話を聞いた。「それを見れば欠落してしまった恐怖を呼び起こせるかもしれない、ボクを変えてくれるかもしれない」。切なる望みを託したそれを、ボクはようやく手に入れた。他ならぬ、あの一行のおかげで。

 ふ、と息を据えて、もう一回、手中に視線を落とす。
 それは、ウワサに違わぬモノだった。それは、直に見たのは初めてのモノだった。


(でも結果は……今回もダメだった、か)


 “普通”の人がこれを見たなら、怖いだとか気持ち悪いだとか不快だとか、そういった否定的な感情、負の感情で身体が震えることだろう。
 これを見て、ボクの身体も確かに震えた。けれどその裏側にあるのはそんな感情じゃない。
 今にも滴り落ちそうな赤黒いモノを前に、身体の芯から湧きあがるのは――抑えきれない歓喜と、どうしようもない愛おしさと、愉悦の笑み。
 麻薬の効果にも近しい、あまりに捩れて歪んだ、肯定的な感情、正の感情。


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 悲願達成を予期していた今回も、ボクは恐怖をしることができなかった。振り出しに後戻り、また恐怖を見出せそうなモノを一から探し直さなければならない。
 諦めるという選択肢はもとより持ち合わせていない。ボクは、恐怖をしりたい。頭で知っているだけではなく、己が身体と心で恐怖を感じたい。
 なんて果てのない、なんて終わりの見えない、なんてシンプルな願望。


「……シンムゲゲ ムゲゲコ ムウクフ」


 ボクは再びコトバをなぞって思いを確認する。薄く引きあげた唇からは知らず知らずのうちに音が零れた。



「ねえ、“恐怖”って  ナニ?」






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