そのサーカス団は、呪われていました。






PIERROT 第1章 大いなる導きのままに
〜The curtain of PIERROT has already risen〜 T






 次に意識をしっかりと掴み直した時、青年が真っ先に認識したのは、照明がおぼつかなく灯る薄汚い部屋の佇まいであった。
 セイジは混乱している頭を左右に振って状況を確認する。
 埃をたっぷりと被った棚、ひび割れて今にも崩れそうな樽、精確に動いてはいるが年季が入っている鳩時計、過ぎ行きた時をそのまま現世に持ってきたような色褪せた机……どれもこれも見覚えのない物ばかりだ。少なくとも、昨日自分に宛がわれた部屋でないことは分かる。
 一通り首を回した彼の口からは、いささか月並みな感想が零れ落ちた。


「ここはどこだ?」


 相棒のビスクドールは透き通った瑠璃色の瞳でじっと辺りを見つめ、感覚を研ぎ澄ませる。少し肌寒い風が、カビの臭いを運びながら二人のすぐ横を駆け抜けていった。
 あたかも陽の暖かみを嫌悪するような影を孕んで走り去る、この独特な風が息づく場所は、ただ一つ。
 地の下に他ならない。


『地下室みたいだね』
「あれ? 俺、さっきまで控え室にいたよな?」
『うん。さっき大きな警報が鳴らなかった?』
「一体何が起こったんだ?」


「あれはピエロゲーム開始の合図ですよ」


 考えども考えども疑問符ばかりが浮き上がるセイジの脳内に、優しく残酷な答えが染み渡るまで、さほど時間はかからなかった。
 声のした方へと向けば、二又に分かれた滑稽な帽子を被り、派手な紫色の緩く、これまた滑稽な衣装に身を包んだ人間が、こちらに背を向けて立っている。
 このセピア色の部屋におよそ似つかわしくない、強い原色をまとった人間を不審に思ったのか、セイジは少しだけ彼に歩み寄った。


「誰だ……? お前」
「初めまして……セイジ。私はサトルといいます。見ての通り、このサーカス団のピエロの一人です」


 きつい色合いとは裏腹に、穏やかな言葉が柔らかな声で、丁寧な口調によって紡がれる。
 その様子にセイジが少し胸を撫で下ろした瞬間、ピエロは柔和な態度を崩さないまま、残虐な旋律を淡々と奏で始めた。


「あなたはこの部屋からゲームスタートです。これはルールですから、どこにいようとゲームが開始されればここに飛ばされるんですよ」
「ま、待ってくれ……ゲームとかルールとか何の話だよ?」
「時間がないので手短に説明しますが、今後のあなたの運命を決める話です。心してよく聞いて下さい」


 青年の慌てた制止には一切耳を貸さず、ピエロは淡々と話を押し進めている。セイジはとりあえず現状把握が先だ、と自身に言い聞かせて先走った口を引き結んだ。


「まず、今このサーカス館の中でゲームが始まりました」
「ゲーム?」
「はい。‘ピエロゲーム’と呼んでいます。世間には知られてませんが、昔からこのサーカス団が行っているゲームです。団長にとって不都合なことをした者は‘ピエロリスト’と呼ばれるリストに載るようになっています。そのリストに載った者がこのゲームのターゲットです。リストに載った者は団長が制裁を与えにきます。要するに罰ですね。ちなみにもし制裁から逃げようとした場合、他の団員達はそのリスト対象者を殺してもいいことになっています。団長から制裁を受けるか、他の団員達に殺されるか、どちらからも逃げ切るか――というゲームです。命に関わる‘鬼ごっこ’のようなものですよ」


 よくもそれほど口が回るものだと思えるほどに、立ち止まることを知らずさらさらと続いていくフレーズ。表面だけをすくい取れば何と不可思議な話、と笑い飛ばせたであろう。しかしセイジにとってこの話を笑い飛ばすことは皆目不可能であった。
 おとぎ話に出てくる、不幸を一身に背負った主人公がその役目を押し付けてきたような、それでいて妙に現実味を帯びている話を突きつけられてなお、信じられない、バカバカしいの一言で片付けられたならばどんなに良いことか。


「な、なんだそれ!? 俺がそのリストに載っているのか?」
「正確に言えば、たった今、載りました。さっきの警報はあなたをターゲットとするゲームの始まりの合図なのです」
「なんで俺がそんな訳の分からないリストに載るんだよ!? 俺は昨日このサーカス団に入団したとこでまだ団長にも会ってないぞ!?」
「時には例外もあるかもしれませんね」
「例外? 冗談じゃねえ!」


 あくまでも冷然に言葉を流し続けるピエロに対し、セイジは憤怒の意を表す。が、張り上げられた彼の声はゲームへの恐怖心からか、かすかに震えていた。


「ゲームについて質問はありますか?」


 しばしの沈黙の後、ピエロは疑問解消の手を差し伸べる。セイジは眉根にシワを寄せたまま考えを巡らせた。


(何が何だかサッパリだ……これは現実なのか? 俺はこれからどうしたら良い? 頼む、夢なら覚めてくれよ……)


 しかしセイジの心の叫びは頼りなく浮かぶシャボン玉が弾けて崩れるように、跡形もなく消え去ってしまう。どう足掻いても無駄だと判断した青年は、決然とした面構えで紫色の後姿に焦点を合わせた。
 本音を言えば、質問するのも怖い。なぜならその問いに対する答えが、地獄からのさらなる甘美な囁きになるとも限らないからだ。
 だからと言って何も聞かずにこの部屋を飛び出せば、それこそ団長や他の団員にとって格好の餌食になることは間違いない。聞かずに後悔するよりは、聞いて後悔した方がマシである。
 

「……三つ質問がある。団長から受ける制裁って何だ?」
「団長は対象者の‘最も辛いと思うこと’がお分かりになります。それが制裁内容です。あなたにとって最も辛いと思うことはあなたと団長しか分かりません。大抵の者は‘死’であることが多いですけどね。今まで行ってきたゲーム対象者のほとんどが、制裁は死ぬことでした。要するに過去ほとんどの者は生きていない、ということです」
「げっ……!!」


 ‘死’という言葉に反応して腕の中のアンティークが無表情のまま息を飲んだのが、やけに生々しく感じられる。
 セイジは自分の頬に緩やかで透明な尾を引いていく冷や汗を、投げやりに拭い取った。



「二つ目!! お前の言っていることが本当なら、このサーカス館から脱出することは可能か?」
「無駄だと思います。ゲーム中、対象者はこの館から出られません。ですが安心してください、これはただの殺し合いではありません。ゲームには終わりがあります。次のサーカス公演日まで、あなたが制裁を受けずに生き延びていたらゲームは終了します。そうすればあなたはただの団員に戻ります。命を狙われることもありません」
「ゲームなんざで同じ団員を殺そうとするなんて信じられないけどな」


 セイジは苦々しげに、人間として常識的な考えを吐き棄てる。
 しかし返ってきたピエロの言葉は暗澹そのものであり、セイジを一気に奈落の底へと突き落とした。


「残念ながら。ゲーム期間中は頭にある常識を捨てた方がいいです。殺されてからでは、誰にも文句は言えませんから。あなたはゲームが終了するまで自分が生き延びることを考えて下さい。あなたの制裁内容がどんなことかはわかりませんが、制裁を受けたら無事ではいられません」


 地下を廻る無情な風が青年と人形の髪に絡み、遊び、離れていく。
 セイジは絶望でうつむいていた顔をのろのろと上げた。
 ピエロはセイジが顔を上げたのを知ってか知らずか、自ら作った沈黙を綺麗に破く。


「逃げ延びてください。……例えどんなことが起こっても」


 セイジが言葉にならない言葉を喉の奥でつかえさせていると、ピエロは先程よりも少し語調を強めた。


「そろそろ時間がありません。早くしないと他の団員達が殺気立ててここにやってきます」
「三つ目――お前……敵か? 味方か?」


 我ながら愚問だとは思う。敵に敵かどうかを尋ねたら、十中八九嘘を吐かれて欺かれるのがオチであろう。
 けれど時間がないと言われ、慌てて喉にあったつっかえ棒を取り除いた時、さも当然のごとく滑り落ちた言葉は他でもない。自分が一番知りたかったことである。


「……私は――」


 取り出した言葉を引っ込めないまま、ピエロが初めてこちらを向いた。と同時に、セイジは目を見張る。

 ピエロという職業であるが故、彼の顔はさまざまな色合いで彩られている。しかしそれでもはっきりと分かるほどにすらりと通った鼻筋、整えられた形の良い眉、怜悧さをそのまま具現化したような黒々した瞳……彼は同性であるセイジが思わず言葉を失うほど、端整な顔立ちをしていた。

 しかしセイジが目を見張った最たる理由は他にあった。

 鮮血のような赤が道化としての口角を持ち上げてはいるが、彼自身の口角は固く結ばれて微動だにしておらず、顔面全体が堂々たる氷柱のような鋭さを湛えたまま凍結している――つまり彼の顔からは、人間であるならば必ず神から平等に授けられるであろう‘表情’が欠落していたからだ。

 絶句した青年を見据えた見目良いピエロは、均衡が取れた唇をわずかに動かして、耳に心地よい声音を投げた。


「味方です」


 転瞬、ピエロの言葉に導かれたように部屋に据え付けられた鈍色の扉が耳障りな声を上げ、目を猛禽のごとくギラギラと光らせたマジシャンが大股で歩み寄ってくる。
 その口元は、物の怪に取り憑かれたような気色悪い笑みで満たされていた。


「見つけた! 左手に人形を抱いた茶髪の青年……お前が‘セイジ’だな!」
「おや、さっそくやってきましたね」


 突如話を割って現れた敵に対してセイジが身構えるのと、ピエロが眉一つ動かさずに涼やかな台詞を発したのはほぼ同時のことであった。


「団員達にはあなたの名前と特徴を知られています。当たり前ですが、死にたくなければ生き残って下さい。では、健闘を祈ります」


 後方で鈴のような澄んだ音が鳴るや否や、先ほどセイジに対して味方だと宣言した怪しいピエロは早くも部屋から身を消した。急いで目を凝らすも、あの奇抜で馬鹿馬鹿しくおどけた姿はどこにも見当たらず、無駄な努力に終わる。



「消えた……!?」
『違う、姿を隠したんだ! まだこの部屋のどこかであたし達の様子を見てるんだよ』
「くっそ、なんだアイツ、味方だって言ったくせに……!」


 「死にたくなければ生き残れ」。
 その言葉はまるで「生きたくなければ死んでしまえ」と、セイジを嘲っているようにすら聞こえる。このような状態に置かれた人間にとって、死なないために生きることがどんなに辛く難きことであるのか、恐らく高みの見物を決め込んでいるピエロは露ほども解さないのだろう。
 あのピエロの言う‘味方’は‘共に戦うこと’と同意義ではなかったのか、やはり彼も敵なのか。真実は常闇に棄て去られたままだ。

 とにもかくにも、やるしかない。セイジは激昂による歯軋りを走らせながら護身用のナイフを取り出す。アンティークはラピスラズリの瞳に仄かな光を灯して主人への加勢を申し出た。


『あたしセイジが死んじゃうのはやだよ! 生き延びるためなら一緒に戦うよ?』
「そうするしかないようだな……!!」


 考えてみれば今までだって、生は飢えや渇きという戦場において、日常的に奪われる可能性のあるものだった。今回は、命をめぐる戦場がサーカス館に変わっただけだ。
 昨日までは働いて働いて働いて、戦場の中で屑のような金を使って這い上がってきた。
 今日からは逃げて逃げて逃げて、戦場の中で時機が舞い下りたら立ち向かう。こうするしか今ここで生きていく術はない。

 人形を持つ左手に力を入れ直し、短刀を握りしめた右手を静かに構えた青年に向かって、邪悪な笑みを刻んだ奇術師はその口をさらに横に引き伸ばした。


「ひゃははっ! ……死ね!!」



 下卑た笑い声が狂人のそれに変わった時、すでにその身はセイジの懐の真下へと入り込んでいる。寸でのところで攻撃をかわすと、マジシャンはゆらりと視線を青年に投げ打った。


「大人しく殺されろよ、お前……それが対象者たる者の、務めだぜ?」
「冗談! こんなところでくたばってたまるかっての」
「いいや、今逃げ切ったところで、お前は直にくたばるさ……団員のほとんどは、お前を殺そうと、至るところで待ち構えてる。これから苦難を沢山味わうより、今ここで、早急に、死んだ方が良いとは思わないか? だから、俺に殺されろ。死ね」
「全力で遠慮する。……残念だが生憎、俺は生への執着心が強くてね」


 そうは言うものの、青年にはこの状況を打開する策がまったく思い浮かばなかった。沸騰しそうなほどに熱くなって使い物にならない脳で考え出せる唯一の策は、何とか粋がって強気な台詞を吐き、ひたすら時間稼ぎに徹する、ただそれだけだ。
 じっとりとした不快な汗がセイジの顔を伝って滴り落ちる。情けないことに、手も足も小刻みに震えてカタカタと音を立て始めた。
 しばらく沈黙を守っていたアンティークは、努めて強く固い言葉を形作る。


『セイジ、あたし、頑張ってこの人の動きを止めるから……それがうまくいったら後はセイジの出番だよ』
「ああ……分かった」


 頼りになる相棒の声に勇気づけられ、セイジは緊張した面持ちで、しかし深く頷く。
 青年達の異様な行動が気に障ったのだろう。奇術師はいっそう顔を歪め、殺意の言葉を口走りながら凶器を振りかざした。


「死ね……、死ね、死ね!!」


 刹那、吐いた台詞を保ったまま、マジシャンの体が石化したように動かなくなる。
 可憐な人形の青金石から放たれた青白い光が、狂人の細胞すべてを牛耳ったようにその動きを完全に封鎖したのだ。奇術師の表情が次第に強張り、険しくなっていく。


『……セイジ!』
「分かってるって――じゃあな、ちょいとばっかし眠っててくれよ!!」


 威勢の良いかけ声とともに、青年はナイフの柄頭を奇術師の鳩尾へと突き当てた。途端に、奇術師の身体は糸の切れたマリオネットのごとく床へと崩れ落ちる。
 マジシャンが確実に失神しているのを見やり、セイジは濃いため息を吐きつつ玉のように浮かんだ額の汗を袖で拭った。一息ついたせいか、自然と気持ちが形となって零れる。


「マジで襲い掛かってきやがった……」


 ピエロの言動に対して半信半疑だった、数分前の自分を責め立てたくなる。
 まさかここまで本気で行われる生命奪取遊戯だとは思ってもみなかった、というのが本音だ。実際今も、アンティークの助けがなければこうして無事でいられたかどうか、危うい。
 その、主人の命を救った勇敢なビスクドールは、短い逡巡の後、主人に問いかけた。


『逃げ延びるっていっても……これからどうしたらいいのかなぁ』
「要は団長の制裁から逃げればいいだけで、襲い掛かってくる他の団員は一発くらわせておけばいーんだろ」
『……ほんとにそれでいいのかなぁ』


 主人は、たった今襲いかかってきた敵を突き倒したことによって妙な自信をつけた上、少し楽観的になったらしい。
 セイジは、切りかえが早いのは良いことだけどここまで早いとなると先行きが心配だなぁ、などと悲観的に呟き続ける相棒をたしなめた。


「いいんだよ。それより早く団長に会いに行くぞ」
『え!? なんか言ってること矛盾してるよ? 制裁からは逃げるんでしょ?』
「俺がリストに載ったのは手違いだって言いにいくんだよ。まだ会ってもいないのにさ。次の公演日までずっと命狙われながら過ごすのは嫌すぎるぞ」
『団長さんがどこにいるか知ってるの?』
「……………………ほ、ほら! このサーカス館のどこかにいることは間違いないんだし、館内を探してりゃ見つかるだろ」


 精確な歩幅で歩み続ける鳩時計の秒音が丸々十を数えるまで考え込んでから、セイジは場違いな明るい声を出した。
 が、秒音が次の一歩を踏み出した時にはすでに、青年のそれは音量も明度も先ほどより数段以上低くなっている。


「顔、知らないけど……」
『……大丈夫かなぁ……』


 アンティークは至極弱々しい声を漏らした。それはこれから自分たちに降りかかる難儀を案じてか、それとも、難儀すると知りつつも手探りで進み出そうとしている主人を案じてか。
 変わらない表情のまま心配で気を揉んでいるアンティークをよそに、セイジは根拠のない自信を盾とし、無理矢理張り上げた気力を剣として掲げ、不安要素に満ちあふれた発進号令をかけた。


「と、とにかく手当たり次第団長を探しにいくぞ!」


 セイジは自分の号令が空しく響き渡った部屋を後にした。生きているものが何もなくなった古い部屋には、あの地下特有の香りを持つ風がかすかに吹いている。
 その風に吹かれ吹かれて、年老いた机の上でひらひらと白く瞬きながら踊り続けているメモには、こう刻み込まれていた。


ピエロリスト No.44 ‘セイジ’様へ
あなたは罪を犯しました。あなたに残された道は3つ。
制裁を受けるか、他の団員に殺されるか、逃げ延びるか――です。
では、ご武運を――
団長









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