鈍色の扉が耳に痛い音を立てて開いた瞬間、青年の表情が糸で吊られたように引きつった。
灰色一色で染め上げられた地下通路はそこまで長くも、広くもない。それなのに。
「なんかわらわらといるんですけど……」
そう、こんなに狭い場所であるというのに、自分の命を付け狙う者たちが其処彼処で目をぎらつかせていたのだ。これではどう頑張ったとしても、多少の戦闘は避けられないではないか。
『みんな団員ね。きっとセイジを探してるんだよ』
「たとえ生き延びてゲームが終わっても、俺、このサーカス団でやっていく自信なくしたかも……」
奇術師に贈呈したものと同じ鳩尾当てを道化師に与え、気絶した彼のポケットから転がり落ちたキャンディを摘みあげるセイジの表情は、既に弱りはてたものだった。
PIERROT 第1章 大いなる導きのままに
〜The curtain of PIERROT has already risen〜 U
団長に会って、自分の名前がリストに載ったのは手違いだ、という一言を告げるには、団長室を目指さなければならない。しかし自分は団長室の場所どころか、このサーカス館の構造がまったくと言って良いほど分からない。
そんなわけでセイジは追いかけてくる団員を振り払い、襲いかかってくる団員を蹴散らしながら館内の間取り把握に勤しんでいた。まずは北に足を運んだのだが、少し見たところ、どうやらこのサーカス館は控え室より北の方面が複雑になっているようだ。その上うろつく団員の数も半端ない。
ならば南へ、と方向転換をしたセイジを出迎えたのは、ガラクタが無造作に捨て置かれた細長い廊下であった。
その角を曲がりきると、さまざまな色を携えてアーチを描く、煌びやかな光が青年の瞳を瞬時に細めさせる。
「ここはステージか。いつかここで演戯できたら、気持ちいいだろな」
突然の光の眩さに怯んだ目がゆっくりと調光機能を発動させたのか、ぼんやりと空間の輪郭が浮き上がってくる。
色とりどりな装束で身を輝かせているステージは、壮麗という言葉をそのまま形にしたものと言っても過言ではない。
靴を履いていてもその質感が感じられるような冷光を発す大理石は惜しげもなく床にきっちりと敷き詰められている。格調高い装飾が施された柱は右端から左端まで幾重にも立ち並び、柱間には広すぎる舞台を引きしめるように階段が天へと手を伸ばしている。仰げばそこには広大な空を凝縮したかと見違うほどに立派なドーム型天井と、数々のシャンデリアによる幻想的な世界があり、その景観は見る者を圧倒させるに余りあるものだ。それ故、命を追われている立場の青年がゲームを無事終えたその先まで思い及んでしまったのも、無理はないことだった。
豪華な舞台を前に呆気に取られているセイジの腕の中で、アンティークは中央に佇む少女の姿を目に留める。
『誰かいる……』
アンティークの声によって弾かれたように前方を見たセイジと、四分の一回転して振り返った細身の少女との双眸には、互いの姿が確かに映し出される。
セイジが口を開く前に、少女の小さな唇から低い呟きが漏れた。
「……邪魔。出ていって」
「え、あ、悪い。練習中だったのか」
「あんた新人? 新人は廊下で練習でもしなよ」
流し目でこちらを見やった少女から紡がれる素気なくどこか棘を含む物言いに、反射的に謝る青年。そのやり取りを見たアンティークからは安堵の意が滲みでる。
『セイジのこと知らないのね』
「人形が喋った……。新人のクセにあんた腹話術うまいじゃん」
『!! あたしの声が聞こえるの?』
「そんな! 俺以外は聞こえないはずだ。今までそうだったんだからな」
あり得ないはずの事実に、セイジとアンティークは驚愕する。が、少女の反応で判断する限り嘘ではないのだろう。けれど、人形の声を聞くことができるのは人形師であるセイジだけであるはず。だからこそ今まで散々変人だの、頭がイカれているだのと蔑まれてきたのだ。
自分以上に驚いている二人を少女は不思議そうに眺めていたが、やがて我関せず、とでも言いたげに言葉を吐いた。
「腹話術じゃないの? まぁどっちでもいいや。このサーカス館にはもっとバケモノみたいな人間がうようよいるしね」
『ピエロゲームのこと知らないのかな?』
アンティークは少女に聞かれまいと、囁くようにセイジへと問いかける。しかしその答えを返したのは他ならぬ少女であった。
「ピエロゲーム? あぁ、アレまた始まったんだ。なるほど、あんたが今回の対象者ってワケか」
「お前も俺を殺しにかかるか?」
「別に。あんたが死のうが生きようがどうでもいいし。それよりあんた、私の話聞いてた?」
「? 聞いてるだろ?」
この女も敵か、と皮肉げに問うた青年の瞳が丸くなる。この粋を集めた舞台上には自分とビスクドールと、質素で動きやすそうな服に身を収めている少女しかいない。さらにたった今自分が話しているのは人形ではなくこの少女だ。話を聞かないはずがないではないか。
聞いているのがさも当然、という態度で疑問符を浮かべると、少女は浅いため息をついてから、持っていたクラブを軽く回して機嫌の悪さを仄めかした。
「聞いてないよ。私は最初に‘出てけ’って言ったんだ。ケガしたくなきゃあんたの抱いてるキャサリンちゃんと一緒にさっさと出ていって」
投げつけるためにそうしているのかどうかは定かではないが、少女の手中で綻びのない弧を描くクラブは今までよりも速度を上げて踊っている。
その様子にまったく気づいていないセイジは、キャサリンじゃなくてアンティークだ、などと小さく反論しながら身を翻そうとした――が、その体勢のまま凝固する。
自分が入ってきた袖幕の反対側に、突如人影が揺らめいたからだ。
「いた……カナ……」
「!! アオイ……!」
漆黒の衣をまとった人影は気配なく、しかし確実な足取りでこちらへと歩み寄り、艶と憂いを一緒に閉じ込めたような美低音で少女を包み込んだ。少女は呼びかけられるまで黒影の気を感じ取っていなかったらしく、途端に身を強ばらせ、眉根に溝を穿つ。
どうやらカナと呼ばれた少女とアオイと呼ばれた青年はよく見知った関係にあるらしい。すっかり蚊帳の外となったセイジは遠慮なく、暗闇から姿を現した青年を上から下まで眺めた。
ステージに降り注ぐライトを受けて鋭い光沢を放つ銀の髪、絹のように白い顔、つり上がったやや切れ長な青海の瞳。彼を一言で形容するならば‘綺麗’なのだが。
「今度は誰だ? てかアイツ変なニオイしないか?」
『血と人の腐ったニオイだ……』
「ぐぇ!?」
彼を一概に‘綺麗’と表現できないのは、嗅いだ者に吐き気を与える独特な悪臭と、点々と血で染め抜かれた白妙となっている絹肌とが彼の“異常者”如何を物語っていたからだ。
死の香りとはこういうものなのか、と口元を手で覆って事態を見守るセイジをよそに、少女は口角を持ち上げて表面上だけの笑みを銀髪の青年に投げた。
「……なに? 相変わらず血生臭いね。誰かを殺してでもきたの?」
「首をよこせ」
「物騒なこと言ってくれるなぁ。私はピエロゲーム対象者じゃないのに……このお兄さん、今回のゲーム対象者だからこの人の首とれば?」
「ちょ……っ! おい!!」
すっかり第三者気分で成りゆきを眺めていたセイジは我に返り、慌てて少女を怒鳴りつける。
ここに辿り着くまで何回も団員を失神させてきたが、セイジはこの銀髪の青年が相手では太刀打ちできないと、誰に言われるまでもなく感知していた。それほどまでに相手は底知れない虚無を孕んだ圧倒的な存在感を身辺に漂わせている――自分と青年の間にある実力の差という溝はあまりにも巨大で、果てしなく深い。
しかし銀髪の青年はセイジを一瞥することすらせずに、ゆっくりと首を横に振った。彼の動きに合わせて血塗られた漆黒の衣が微動する。
「お前の首だ。お前の首がほしい」
こちらをじっと見つめてただただ‘ほしい’と連呼するその姿は、年端も行かぬ子どもが手に入れられない高価な玩具をねだるような、どこかあどけないものを彷彿とさせる。
唯一子どもと違うのは、‘ほしい’と口にするだけでその願いは達成され得ないという的を射た解釈を持っていることか、それとも‘ほしい’ものを手にするのは当然だという執念にも似た自信を持っていることか。
背から心臓に向かって氷の刃をつき立てられたような感触を覚えるほどに痺れた空気が辺りを覆いつくそうとした、その瞬間――
「……あげない!!」
そう叫ぶや否や、少女はセイジが入ってきた袖幕の方向へと猛進した。その行路に立ち塞がっていたセイジも少女の勢いに見事に巻き込まれ、前方を向いたまま後ずさりを加速する。
袖幕の外に無理矢理押し出されたセイジは、突然の出来事に跳ね上がって狼狽する呼吸器官をやっとのことで整えた。
「び、びっくりした……。イキナリなんだよ?」
「あんたが邪魔なとこに立ってるからだ。あー、ほんと邪魔」
逃げ道を塞いでいたことがよほど気に食わなかったのか、少女は邪魔という言葉を繰り返してセイジを心底邪険に扱った。
さっきのピエロといい銀髪といい、このサーカス団はどうしてこう‘常識’の二文字から逸脱しすぎた人間ばかりが蔓延っているのだろうか。さらにその中でまともだと見受けた少女に至っては、とにかく情け容赦がない。
本当にここは救えない場所だ、とセイジが何度くり返したか分からない溜め息を一層大きく吐き出すのと、アンティークが声を戦慄かせたのは同刻のことだった。
『さっきのアオイって人、すごい殺気だったよ……。今のタイミングで逃げてなきゃ、たぶん、』
たぶん、否、絶対、そうであっただろう。最後まで言わずとも今の状況を考えれば、後に続く言葉など考えるに足らぬものだ。
舞台を出るまで前を見ていた自分には分かる。彼のあの瞳には獲物を惜しいところで逃がしてしまって悔しいような、それでいて痛めつけた獲物をわざと放して見下しているような、余裕を持て余しながら殺戮を楽しむ異常な精神を持った狩人が憑いているようにさえ思われた。
『首をとるって……どういうこと?』
「あんた達には関係ないことだ」
「こんな強烈な現場に出くわして気にするなっつーのは無理だろ」
「……自分の心配だけしてれば? ピエロゲーム対象者のクセに」
やけに突っかかってくる新米団員達にぶっきらぼうな台詞を投げ打った少女は、尖った視線を汚い廊下に置き、そのまま淡々と言葉を紡ぐ。
「あいつに首を狙われるのは初めてじゃない。なんで私の首がほしいのか知らないけど、あんなの全然平気。恐くない」
「本当かよ……。それにしても俺の他にも命狙われてる奴がいるとはな」
「私はピエロゲームなんかには関係ない。それに狙われてるのは首だ。命じゃない」
「同じことだろ?」
首を斬られることはそれ即ち、死だ。頸部を切断されて生きていられるものなどあり得るわけがない。
しかし目の前の少女は、頸部と命とを別物と考えているようだった。首を傾げているセイジを視界の端に捉えながら、少女はこう断言した。
「違う。あいつらは私の命がほしいんじゃない。首――、頭部がほしいんだ」
『あいつら……?』
少女は遠慮がちに問いかけたアンティークの質問に答えることなく、二人にはこれ以上の話を聞く権利などない、と言うように眉間に浅いシワを寄せたまま閉眼した。だが心もち気弱に伏せられた目から察するに、少女自身、なぜ自分が狙われているのか、相手は自分の首を何に使おうとしているのか、まったくの迷宮入りなのだろう。
その様子を瑠璃の瞳で黙視していたアンティークは、思い立ったように美しい鈴の声を揺らせた。
『ね、セイジ。このコと一緒に行動しようよ』
「はぁ?」
『あたし達はこのサーカス館のことよく知らないし、このままじゃ団長さんを見つけられないよ。それにこのコだってよく分からないけど危ない立場にいるみたいだから一人より一緒にいたほうがいいよ』
団長、という言葉に反応し、少女の肩が軽く跳ねる。長い睫毛を拵えている彼女の瞳には、人形を抱えた細身の青年の姿がはっきりとした輪郭をもって描かれていた。
「……あんた、団長探してんの?」
「ああ、俺がピエロリストに載ったのは手違いみたいだからな。消してもらうよう言いに行こうと思って」
「あんたが団長に会うまで一緒にいてやってもいいよ」
『ほんとう!?』
予期せずして訪れた加勢の申し出に、アンティークは声を弾ませた。
正直を言って、主人が一人でピエロゲームを乗り切るのは無理に等しい……人形心にもやはりそう思うところがあるのだろうか。何にせよ、大多数が敵である今の状況下では、一人でも多く味方に引きこまなければ勝機はない。
その切実な事実を理解しているのかしていないのか、セイジは呑気にも少女に対する捻じ曲がった感想などをぼやいた。
「いちいち言い方がムカつく奴だと思ったら意外に協調性があるんだな」
「あんたの方がムカつくよ」
素早く切り返された少女の台詞にセイジは肩をすくめる。ろくに敬語も使えない自分が言えたことではないが、本当にこの少女の言葉は辛辣だ。
それでも何回か聞くうちに慣れるだろう、と気楽に構えたセイジは不意に、名乗っていなかったことに思い当たり咳払いを一つ零した。
「カナ……って呼ばれてたよな? 俺はセイジでこの人形はアンティーク」
「‘セイジ’ってどこかで聞いたことある気がする……」
『セイジの名前と特徴は団員さん達に知られてるみたいだからね』
違う、そうじゃない、もっと別の、記憶の霧中にある、遠いどこかで――。
そう言おうとして少し口を開きかけた少女――カナは、出かかった言葉を喉の奥に押しやって仕舞い込んだ。今この人形に反駁したからといって何が変わるだろう。それどころか、どこで聞いたのかはっきりと思い出せない以上、赤の他人である青年と馴れあうなどまったくもって不必要なことに相違ない。
カナは手に持っていたクラブを二、三回転させてその感触を確かめてから、腰元にしっかりと差し戻した。そして二人に背を向けて控え室への道を辿り始める。
おい、どこ行くんだよお前、などと後方で慌てふためいている頼りない人形遣いに向かって、カナは威迫に満ちた台詞を放った。
「足手まといになるようならキッパリ見殺しにするよ?」
「……ほんと言うことキッツイな」
青年は数分前の前言を密かに撤回した。彼女の台詞は何回か聞けば慣れる、などという生易しいものではない。むしろ何回も聞いていたら、こちらの心身が保つかどうか保証できないくらいに切れ味が鋭い。
(ったくコイツ、どういう教育受けてきたんだか……。親の顔が見てみたい、てのはこういうことを言うんだな)
実体験を通して、使い古された言葉と己の心理との一致を痛感したセイジは、既に少女の姿がこの場にないことをようやく気に留めた。
どこへ行ったんだ、と見回してみると、少女ははるか前方で手持ちのクラブを見事に操り、狂気に囚われて我を失っているリボン使いを深い眠りの海へと突き落としている。その動きは魅せる舞を踊るように華麗であって、しかし油断や隙は一欠片もなく凄絶なるものだ。
(……でも、正直言って、コイツを敵に回さなくて良かったかも……)
自分よりも大きく卓越した彼女の戦闘能力を目の当たりにしてそう思わざるを得なかった青年は、気絶しているリボン使いの横を足早に通過し、先を進む華奢な少女を追走した。
BACK NEXT