「ピエロゲームが終わるまでこの時計の中に隠れるってのはどうだろ」


 あまりに古いためそれ自体としての役割を果たしていない振子時計を前に、セイジの方向性を間違った非現実的な意見が飛び出す。


「やれば?」
「……いや、冗談だ。無理だろ」
「じゃあ言うな。馬鹿じゃない?」


 セイジとしてはこの緊迫した空気を多少なりとも和らげる軽いジョークのつもりだったのだが、セイジの読みとは正反対にカナは元より固い表情をさらにしかめ、セイジのささやかな気配りを完膚なきまでにぶち壊す鉄拳の言葉を放った。アンティークに至っては楽観的すぎる主人に呆れたのか、二人の会話にはもはや何も突っ込むまい、とでも言うように氷塊にも似た沈黙を保ち続けている。
 もうちょい優しく言えよ、いくら何だって言い方があるだろ、大体俺は……などと続けてぼやく陰鬱青年を尻目に、アンティークは青金石の両目で古時計を眺めやった。

 もともとは青銅か何かで美しく輝いていたであろう振子は既にところどころが錆つき、鮮やかであっただろう木目は今やその形を薄く留めることもおぼつかない。しかし硝子に刻まれた細やかな縁取りや、曲線の持つ緩やかさをうまく利用して装飾された針を見るに、なかなか値の張る逸品であると推察できる。
 古時計の全体像を粗く脳裏に収めていたアンティークは、年月がたっぷりと染み込んで黄ばんだ文字盤の上、立ち止まっている針にふと目を留めた。長針は十二をわずかに越えた辺り、短針は二よりもわずかに手前。普通に動いた末にその歩みを止めたのだとしたら、このような配置にはならないはずだ。


『ねぇ、でもこの時計変だ、長針と短針が有り得ない位置で止まってるよ。誰かが動かしたのかな? もしかしてここに隠れてた人が今までにいたとか……』
「ほらみろカナ! 時計の中で過ごした奴がいたかもしれないってよ!」


 やはりアンティークは自分の心強い味方だと確信して元気が出たのか、セイジはカナに向き直って得意げに鼻を鳴らした。
 幼少の頃からこの館で過ごしてきたカナにとって、館内で新米団員からあれやこれやと威張られるのはよほど気に障るらしく、カナは不機嫌そうに目を細めて腕を組む。
 マズい、言いすぎたか、と背筋を張り伸ばして硬直するセイジと、そんなに言うんならあんたがやんなよ、と普段の倍以上に棘を含んで凄むカナの間を取り持つべく、アンティークは話題を古時計そのものにすり替えた。


『時計の奥に扉がある……人間でも入れそうだよ』


 その言葉を受けて、火花を散らしている少女と尻込みしている青年の視線は再び振子時計に向けられた。
 確かによく目を凝らして見ると、鈍くまだらな光を発する振子の向こう側には、大の大人ひとりが身体を少し屈めて通れるほどの、暗褐色の扉がひっそりと忍んで佇んでいる。


「入ってみるか。いかにも隠し部屋っぽいしな」


 そう言いながら率先して中に潜り込んだセイジが、低層である時計内の天井に頭を勢いよくぶつけて醜態を演じたことは、言うまでもない。






PIERROT 第1章 大いなる導きのままに
〜The curtain of PIERROT has already risen〜 V






 物置のような小ぢんまりとした部屋なのかと思いきや、時計を潜った先の世界は充分な空間を持ち、その内装を無機的なモノで構築していた。
 銀灰色の床、壁紙、天井、金属質の本棚、ベッド、巨大も巨大なコンピュータ。全てモノクロで埋め尽くされているこの部屋で目を引く色といったら、観葉植物のくすんだ緑とストーブの中で揺らめき続ける焔の赤しかない。
 扉を潜り抜ける際に思いがけず強打してしまった頭部をさすりながら、セイジは周囲をゆっくりと見回した。


「思ったより広い部屋に出たぞ……」
「へえ、こんな部屋があったとは知らなかった」


 普通に館内で生活している以上、この部屋の存在に気づくことはなかった――否、この部屋を必要とする理由がなかったから気づくことができなかった、とでも言うべきか。カナも館における新発見に驚いたのか、大ぶりの茶虎目石のごとき両目を丸くしている。
 きちんと片付いてはいるが殺風景な内観を眺めていたセイジの双眸は、どっしりとした威圧感を放ちながらその巨体を晒すコンピュータの前に、あの滑稽な風体を持ったピエロを捉えた。


「あ! お前!」
「おや、まだ無事なようですね。感心しました」


 柳のようなしなやかさをもって味方と傍観者の狭間に漂い、その存在を確立させている道化師の姿に、セイジは怒声にも似た大声を上げる。
 一方道化師はというと、例の、口元をきっちりと結んだ余裕顔で人形遣いを弄ぶ単語を並べ立てる。
 セイジの背越しにピエロを見たカナの口からは、独り言に近い疑問調子の呟きが落ちた。


「あんたサトル……?」
「これは驚いた。カナじゃないですか」
「? 団員なんて数え切れないくらいいるのに知ってるのか?」


 先程の、アオイと呼ばれた掴みどころのない青年が同じ年頃であるカナを知っているのは別段可笑しいことではない。だがピエロとなると話は変わってくる。踊り子と道化師の芸目が重なる可能性など滅多にないということくらいは、サーカス所属歴が一日にも満たない青年でさえ理解できる簡単な道理だからだ。
 セイジの問いに、ピエロはああ何だ、そんなことですか、と微笑(わら)った。もちろん、厚い化粧が施された眉目秀麗な顔面を寸分も動かすことのない、声だけの微笑だ。本来連動するべき顔と声の感情が一致しない様は、強烈な違和感となってセイジの脳を刺激し、混乱させた。
 その声音に元々眉根にあった溝を一層深く彫り込んだのは他ならぬカナである。


「色々と有名な少女ですから」
「そっちこそ有名なんじゃないの? ‘老いぼれピエロ’さん」

(色々有名? 老いぼれ? 質問に答えてくれるのはありがたいんだけど……俺にはサッパリ分からねえよ……)


 またもや会話から取り残されたセイジはがっくりと肩を落とす。ジト目をそのままアンティークに向けると、大丈夫だよ、あたしも全然分からないから、という頼もしくも切ないことこの上ない相棒の答えが返ってきた。
 少女と道化師は、互いを隔てる沈黙という壁を壊さずに直立し続けていた。カナの方は緊張にも似た感情の高ぶりを握りしめた拳に表している。一方ピエロは、カナの刺々しい視線を軽やかに避け、奇抜な色彩をまとった自身を見事なまでにモノクロの景観に溶け込ませながら、置いてけぼりを食らってしょげている青年の方へと顔を向けた。


「……――セイジ」
「なんだよ?」
「この部屋は私の部屋です。恐らくこのサーカス館の中で一番安全な場所だと思います。ここなら休むこともできるので好きに使って下さい」
『わぁい♪ よかったね、セイジ!』


 無邪気な声を立てて可愛らしく笑う相棒には同意せず、セイジは肉体的にも心理的にも身構えの姿勢を取った。
 どこからか吹き降りてくるひんやりとした風が、窮地に立たされた者の頬をいたずらに撫ぜていく。


「……なんかお前、怪しくないか? 手違いとはいえ、仮にも俺は指名手配中の身みたいなモンだぞ」
『きっとこの人、いい人なんだよ』
「これが‘いい人’って顔か?」
『セイジ……それは失礼だよ……』



 確かに表情だけ見たら怖いけど――その感想を、アンティークは大気に触れさせないまま内に留めた。もしも口走ってしまったら、主人をなだめるどころか逆にフォローすることになってしまう。
 口ごもってどぎまぎしているビスクドールの様子など気にもかけないカナは、人形遣いを軽く顎で指してからピエロに詰め寄る。


「私も同意見だ。あんたがセイジに手を貸してもなんの得もない。何を企んでる?」
「……ただ、彼を助けたいだけですよ。もちろんそちらのお人形さんも、カナ、あなたもです」
「胡散臭い奴だ」


 至って穏やかで悠然とした語り口調の道化師に対し、カナはぷいとそっぽを向いて好意とも悪意とも思われる彼の言葉を切り捨てた。
 事態を見守っていたセイジはまた、室内を駆け足で廻る大気の流れが自分を嘲っているような感覚を覚え、思わず身を震わせる。

 ――この部屋は、寒い。

 風が通れる道といったら古時計内の隠し扉の以外に見いだすことはできないし、部屋の隅では一応暖を取るためのストーブがその機能を働かせている。けれど密室にもかかわらず、この部屋はどこから流れてくるのか分からない風で充溢している。そして暖があるにもかかわらず、この部屋の空気は一向に暖かくなる気配すらない。
 しかし部屋の主は自然の原理に反するこの室内環境を気にも留めず、嘲笑を湛える風に二又の帽子をなびかせ、セイジの姿を漆黒の瞳に映し取った。


「この部屋から出るときは私もご一緒させてもらいます。このサーカス団やピエロゲームのことは他の団員より詳しいと思いますのでお役に立てるかと」
「……わかった。詳しい奴がいると心強い。とりあえずお前は味方だと信じていいんだな?」
「そう申したはずです。まぁあなたの判断に任せますけどね」


 相も変わらず無責任な調子で言い終わるや否や、ピエロはソファに腰かけ、ひとり瞑想を始めた。その様子はたなびく雲のごとく形が定まらず、彼だけが別の時間軸で生きているかのようにさえ見える。
 考え深げに顔を歪ませながら室内をうろつく青年。カナは鬱陶しげに溜め息を吐きながらその姿を横目で捉えた。


「あんたサトルを信じてんの?」
「まぁ怪しい奴ではあるけど好意は受けておいたほうがいいだろ」
『最初にピエロゲームのルールも教えてくれたんだよ。悪い人じゃないよ』
「あんた達、ほんと騙しやすそうだね」
「ぐ……」


 本当の事を突かれて喉元で言葉をつっかえさせている様をしばらく見つめていた少女は、やがて焦点をはるか遠くの虚空に合わせておもむろに口を開いた。


「簡単に人を信じない方がいい。私も含めて……ね」


 「あなたの判断に任せます」。この言葉ほど、うそ寒げで、頼れない語句はない。
 「簡単に人を信じない方がいい」。この言葉ほど、現実的で、的確な忠言はない。

 ピエロの案内するところにのこのこ足を運び、不測の事態に陥ったとしても、助けにすがることができるものは何一つとして存在しない。もしそうなったとしたら、信じると決めた自分の愚かな判断を悔い、信じない方がいいと忠告された時に垣間見えた、どこか移ろいを秘めた彼女の双瞳を思い起こすことになるのだろう。


(それでも、俺は)


 今までも生き抜いてきたし、これからも生き抜いていく。
 そのためならば身辺に在るものすべてを最大限に活用することなど造作もない。


(別に‘信用’するわけじゃない。……ただ、‘利用’させてもらうだけだ)


 そう自身に言い聞かせたセイジは、ピエロとの距離を縮めていく。
 その様子に気がついたピエロは瞼をそっと開け、廻る風の唄に一言を添えた。


「ピエロゲームを無事に終わらせるのは簡単なことではないです」
「過去に制裁を受けずに生き延びた奴はどのくらいいるんだ?」
「あなたはリストNo.44に載っています。つまり今まで43名の対象者がいたわけです」
「そんなにいたのか!」


 質問をぶつけておきながらその回答に驚きを隠せていない人形遣いに対し、道化師は静かに頷いてから丁寧に言葉を繋ぐ。


「はい。ですが今まで制裁を受けずに生き延びた者は1人もいません」
「はぁ!?」
「ですから簡単なことではないと言っているのです」
「いや、簡単なことではないというか不可能だろそれ……!!」
『が、がんばれセイジ……』
「こりゃ絶対団長に取り消してもらわないと……」


 生き抜くことを再誓言した際の意気込みが、呆気なくぐらつき始める。それを止める手立てはなく、ただただ立ち尽くすことしかできない。
 ここまで来てようやくゲームの本質――身体的な痛みを遥かに凌駕する精神的な痛み――を知ったセイジを慰めるかのように、言葉は続けられた。


「過去の対象者であってもまだ生きている者は何人かいます。要するに制裁を受けてしまったのですが制裁内容が死ではなかった者です」
『その人達は死ぬことより辛いことがあった人なのね……』
「そういうことになります。‘最も辛いと思うこと’は人それぞれですから」


 死より辛いことなど、存在するのだろうか。
 すぐ側で行われているアンティークとピエロの会話をどこか他人事のように聞きながら、セイジは胸に引っかかったわだかまりをぼんやりと脳内に浸していた。


(俺だって、死は怖いし、辛いことだと思う。死を超える辛いことなんて思いつかない。……でも、考えてみれば不思議な話だ)


 なぜ、人は死は辛いことだと分かるのだろう。その感情は実際に死んだことのない、生者の思考の一部分にすぎないというのに。
 なぜ、人は死を苦しみの最上級に位置づけたがるのだろう。その苦しみは実際に死ななければ、体感できるはずがないのに。


(本当の意味で‘死ぬことより辛いことがある’なんていう言い方ができるのは……きっと‘死を経験して、それに勝る苦しみを知った者’だけ、なんだろうな)


 疑問に終止符を打ったセイジは、ポケットで小さな物音を立てた紙切れを引っぱり出す。
 数刻前はカナとアオイの衝撃的な話題と光景のせいでゆっくりステージを見られなかったため、アオイがまだ舞台に居座っていたら即刻立ち去るつもりでもう一度足を踏み入れてみたのだ。すると不審な銀髪の姿は既になく、代わりにURLと思われる文字が打たれたこの紙切れが、拾ってほしいと言わんばかりに堂々と舞台中央に捨て置かれていたのだった。


「これ、パソコンだよな」
『だね。サトルさんのかな?』
「さっきステージで拾ったURLメモ、ここで見れるんじゃないか?」


 自分の身長を優に越える、怪物とも見違うような金属の塊にURLを叩き込むと、真っ黒な画面上にはショッキングピンクの衣装をまとったピエロの画像が浮かび上がってきた。その横にはMAPやLINK、BBSなどの項目が連なって表示されている。


「これ……このサーカス団のホームページか?」
『みたいだね。誰が作ったんだろう?』


 アンティークの返事を聞き留めつつ交流所のページを開くと、そこには既に何件かの記事が書き込まれている。
 セイジはその中から特に有益になりそうな記事を広げた。


HN:陽気なジャグラー
今回のゲーム対象者‘セイジ’さん!
‘5つの間’には行ってみました? 
団長であるユエさんもよく出入りしてるので行ったらバッタリ会っちゃうかも!?
制裁くらわないように気をつけてねん♪



「……。サトルが言ってた‘ゲーム期間中は頭にある常識を捨てた方がいい’ってのは、正しい意見だな」
『うん……対象者でない皆は、あたしたちが主役の見世物を楽しんでるに過ぎないんだね……』
「まぁいいさ。対岸の火事、他人の不幸は蜜の味……自分に火の粉がかからない以上、それは立派な娯楽として成立するものだからな。それにコイツの軽々しい物言いには腹立つけど、情報を提供してくれてる以上、そんな邪険にできないだろ。――サトル、‘5つの間’って知ってるか?」
「……はい。もちろんですよ。団員の中でも能力が飛び抜けて高い、5人の実力者がいるんです。彼ら5人はそれぞれ個人訓練場をこの館のどこかに持っています。その5つの訓練場のことを5つの間、と呼んでいます」


 解説を聞いたセイジはふうん、と相槌を打ちながら考えを巡らせた。手っ取り早く事を進めるのなら、5つの間は格好の演舞場となるに違いない。


「個人訓練場ねぇ。団長がいないかちょっと5つとも見てくるか」
「恐らく‘ちょっと見てくる’などでは済まされないと思いますが……」
『そんな危険な場所なの?』
「どうでしょうか。他の団員達は入りたがらないですが」


 ただ立場の違いだけではない。団員が入りたがらないのは、その場所に身の危険を感じるものがあるからだろう。この伝統あるサーカスに実力者として君臨し、団員から畏怖の対象とみなされる五人の覇者たち。彼らのところに出向いてむざむざ命を棄てるような真似は、できることならばしたくない。
 ためらっているセイジの背をそっと押して前進させるように、道化師は柔らかい口調で語りかけた。


「ですが団長と直接関わりがありそうな連中です」
「俺みたいな下っぱより幹部クラスの奴らの方が団長と関わってそうだもんな」
『とりあえず5つの間に行けばいいのね』


 アンティークの言葉に首を縦に振ると、ピエロはソファから身を起こす。そしてパソコンの表示をMAPに切り替え、傷ひとつない美しい手を画面上に滑らせて五つの間の場所を指し示した。


「5人がそれぞれ‘巨人’‘水槽’‘猛獣’‘玩具”‘死者’の5つを司っていますが……」
「片っ端から行くぞ! まずは‘巨人の間’だな」


 地図の描かれた電子キャンバスをしばらく見つめていたセイジは、やがて解れかかった茶髪を手早くまとめ直し、パソコンに背を向け歩み始める。部屋に携えられ佇立する扉に向かう彼の姿は、まだどこか頼りなげではあったが、迷いは微塵も感じられないものであった。
 それも当然のことであろう。始められてしまったゲームは、待ってはくれないのだから。
 彼に与えられた限りある時の流れの中で迷っている暇など、ないのだから。


+ + + + +


 生きる。
 ただそれのみを願い、青年は運命に牙を剥いた。
 けれど、嗚呼哀しいかな、青年はまだ知ることはない。
 運命に抗う己そのものが、大いなる導きのままにその身を運命へと投じていることを。
 回旋する輪の一部となって、予定調和の盤上に置かれた駒となって、面白可笑しく踊らされていることを。


 真なるピエロゲームの幕は、もう既に――









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