「そこをなんとかまけてくださいよ、ねぇ」


 誰が仕掛けたのか皆目見当がつかない毒霧の罠をかいくぐり、やっとのことで地下売店に辿り着いたセイジたちを出迎えたのは、腑抜けた調子で店員にすがる黒いマントの男の後姿であった。高々としたシルクハットを被ったこの男、どうやら何か店員と揉めているらしい。

 背後に佇む人の気配を察知したのか、男は外衣を翻して寸分の狂いもない半円弧を描くかのように回転した。


「あっ!! 君、君! 私の代わりにお金を払ってくれたまえ! 20エンでいいんだ! 頼む!!」
「……はぁ!?」


 予期しない頼み事に、セイジは素っ頓狂な声を上げた。一方男はと言うと、顔面に密着したペルソナの前で両手を組み、必死に懇願を続けている。
 その哀訴は滑稽かつ体裁が悪いことこの上なかったが、人に否とは言わせない凄みを包含していた。


(今現在、俺の置かれてる状況が状況だ……下手に断って恨みを買うことだけは避けたいな)


 素早く思考をまとめた青年はポケットをまさぐり、要求された金額と等しいだけの硬貨を仮面の前に突き出した。
 男はそれを引ったくるように掴み寄せると、赤の他人から強奪したにもかかわらず、あたかも自分の懐から調達した金であるかのような仕草で古ぼけたカウンターの上へと収め置く。
 あまりにも遅い客の支払いに不満を漏らす店員などには目もくれず、見るからに怪しいシルクハットの男は爽やかな笑顔にも似た声音を張り上げた。


「いや〜、助かった! じゃ!!」
「え、おい、ちょっ、待てよ!」


 切なる制止の声はおそらく彼に届いていまい。初めて会った時ピエロがそうしたように、彼もまた、瞬時に消え失せた。
 塗装の剥がれかかった汚い壁に背をもたれて事の成りゆきを見ていたカナは、唖然として立ち尽くすセイジに向かって哀れみの視線と口述とを進呈する。


「だから言ったのに。あんた達、ほんと騙しやすそうだね、って」


 彼女の言葉に触発されて、ようやく目前の現実を取り戻した人形遣いは、長い長い沈黙の後、たった今自分の身に降りかかった一瞬の出来事を端的に表した。


「……たかられた……!?」






PIERROT 第2章 常に在りし、腕の内の温もりは
〜From‘Five rooms’ Giant of frenzy BIG〜 T






 不自然な形で屈折した回廊の先には、幾本かの古木でできた丈夫そうな格子を併せ持つ扉が沈黙を守っている。さらにその前には、何かに怯えるように顔を引きつらせた警備員と思しき人物がしきりに周囲を気にしながらうろついていた。

 恐怖に身を震わせている者に話しかけるにしてはあまりにも遠慮のない口調で、セイジは語りかける。


「‘巨人の間’に行きたいんだ。この奥なんだろ? 通してくれ」


 不意にかけられた青年の声によほど驚いたのか、警備員の肩が大きく飛び跳ねる。その瞳は安っぽいゴム玉のように、淀瀬のような鈍い光沢が滲んでいた。


「行きたいなら通ってもいいが命の保証はしないぞ……!」
『なんか大げさだなぁ』
「その割にはアッサリ通してくれるんだ」
「私達を入らせないように封鎖しているわけじゃないですから」


 警備員の台詞を誇張表現だと受け取ったアンティークと、警備員の存在意義を訝ったカナの二方が満足するような形で、ピエロは手短に答えを教えた。


「中にいる奴を出さないようにしてる、ってことか」
「そうさ、ビッグは凶暴な巨人だ。くれぐれも気をつけろよ……!」


 短く考えを巡らせてピエロの答えを換言しながら、格子を潜り抜けようとするセイジに向かって精一杯の諫めを放ったのは他でもない、間の内情を知っている警備員だ。青年はアンティークを抱えていない方の手をひらひらと振ってそれに応えると、立て付けの悪い扉に辛うじてしがみついているドアノブを勢いよく回して押し開け、足を踏み入れた。

 刹那、べたりと纏わりつくような鉄臭が一行を包み込む。
 言いはかることのできない臭気に気圧されたセイジは、気味悪い芸術作品のごとき内観をざっと眺めてから皮肉げに口角を持ち上げた。


「……イイご趣味だこと」
『うわ〜……ある意味絶景だね』


 ほとばしる血飛沫は壁や床に始まり、純白のベッドにまで及んでいる。枯れ果てた樹木や使用した形跡がまったくない蓄音機、表面が腐食した大きなドラム缶など、置かれている物の統一性は皆無に等しい。埃の氷柱を提げて大口を開けているアーチ型の出口を見るに、奥にはさらなる空間があるようだ。


「巨人の間を司るのはビッグという狂気に満ちた巨人です」
「1人目から危なそうな奴だな」
「はい。狂ったように暴れるので問題になっています。時にはなんの関係もない団員を殺してしまうほど……」
「なんだそれ。ほんとに危ない奴だな」


 これを見る限り‘中にいる者を出さないようにしている’という考えも、あながち間違いではなさそうだった。それを裏打ちするかのように、出口のある壁面には大の大人の頭部よりも大きい、血で生々しく彩られた手形が、不気味なほどくっきりと薄暗い部屋の中でその輪郭を浮き上がらせている。


『そ、そんな人が5人のうちの1人なの……?』
「あんな奴、ただの変質者だ。どうってことない」
『で、でもちょっと怖いなぁ……』


 不安げに声をどもらせ、恐怖を前面に押し出しているアンティークとは対照的に、カナは潔く暴虐な巨人を‘変質者’の一言で片付けた。 ピエロは元より、カナもこれから対面するであろう巨人に対してそれほどまでの畏怖は抱いていないようだ。怖がりな性分のアンティークを除けば、万が一何かがあったとしても巨人に対抗して歯向かうだけの精力は充分にあるだろう。

 まず会ってみないことには巨人がどの程度まで残虐なのかすら分からないし、と腹を括ったセイジはカナとピエロ、そして、なるべくなら行きたくないなぁ、などと小さく呟いている相棒アンティークに向かって発進合図を出す。


「んじゃ、まあ、とにかく会いに行ってみるか」


 それを聞いたアンティークの心底嫌そうな抗議を一身に受けながら、セイジは舞い落ちてくる埃を払いのけて常闇の迫る出口へと直進した。


+ + + + +


 換気扇の廻る小さな音が、途切れとぎれに零れてくる。
 タイル張りの床を優しく撫ぜて走る空気は、少し肌寒い。


「……それで? カナちゃんの首はまだ?」


 咲き乱れる大輪の牡丹のごとく、甘く艶やかな声で囁かれた台詞は、明らかにその返答内容を知った上で発せられているようだった。訊ねられた銀髪の青年――アオイは、ゆっくりと首を横に振り、口を開く。


「まだだ」
「そう、別にいいのよ? 落ち込まないで? 楽しみがちょっと延びただけだもの。楽しみだわぁ……愛しいあの娘の首を抱くときが……」


 アオイの顔面や声音の中に、落胆の色というものなどは微塵も見受けられない。淡白な反応しか汲み取れない彼のどこを見て「落ち込むな」と言ったのかは分からないが、フードを目深に被った女はうっとりと将来訪れるであろう幸福に身を浸している。
 その様子を黙視していたアオイは、女が自分の話を受け取れる態勢が整うまで間を置いてから、再び開口した。


「だがリストNo.44‘セイジ’の現在の状況は調べてきた」
「へぇ? そっちはちゃんと出来たのね。おりこうさんよ。ぜひ聞きたいわぁ……まだ生きてるんでしょ?」
「リストNo.44‘セイジ’はユエ、あなたを探している」
「あたし? なんで? そんなに制裁を受けたいの?」


 アオイの発言に予想外なものが含まれていたためか、甘い声が丸みを帯びた。フードの下から見える陰陽の仮面が、蛍光灯から放たれる人工的な光を反射して小さく煌めいている。


「自分がリストに載ったのは手違いだと思い、取り消すためにユエを探している」
「手違い? ふふ、面白いこと考えるわねぇ」


 女はさも可笑しい、とでも言いたげにくつくつと嘲笑を零した。
 転瞬、彼女の声に含まれた艶やかさや甘やかさは一欠片もなくなり、代わりに狂的などす黒い“何か”が、彼女を取り巻くように蠢きだす。


「――ほんとに手違いなら、良かったのに」


 その呟きは時を止めるかのように重々しく、憎悪の塊であるかのように歪んだ響きで吐き捨てられた。アオイは見目良く創られた蝋人形のごとく佇み、主によって止められた時が再び動きだすのをただ静かに待っている。
 己が動かない限りは彼の時間も動かないことを思い出したのか、女は緩く笑ったようだった。組んだ手の上に顎を乗せ、偽りの顔の下からアオイを射抜く。


「まだ生きてるってことは1人でいるわけじゃないんでしょ?」
「相方の人形アンティーク、さっき言ったあなたの娘のカナ、リストNo.6‘サトル’が一緒にいる」
「!! あっははははははははは!! 見事に厄介な面子じゃないの! ふふ、これも運命? 運命なの?」


 脆弱な青年がどのように生を繋いでいるかを知った女は、まるで張りつめた糸を勢いよく切断するかのように笑いを爆発させた。さらに、まるで青年の運命を握る者が目前に存在するかのように、返ってくるはずもない答えを求めて虚空に問いかけている。


「5つの間の5人に会おうとしている。現在は巨人の間に入ったとこだ」
「そう、面白いことになってきたじゃないの……!」
「リストNo.44‘セイジ’には制裁を下さないのか」


 状況を手際よく並べたアオイは、そのままの流れで質問を引き出した。それは彼自身が疑問に思ってのことではない。
 ピエロゲームの対象者は標的にされた瞬間に制裁を受けるのが常。彼がユエの手足と化してから幾らかの年月を経たが、その間に対象者となった者は即座に、彼女による燃え狂って爛れたような暑さと渇きが蔓延る制裁の内へと倒れていった。だが今回のゲームには‘常’がまかり通っていない。
 彼が疑問まがいの調子を使ったのは、今回がいつものゲームと違う位置づけをなされている点に、何よりも大切で誰よりも優先すべき彼女の意思が息衝いているとみたからだ。


「……まだ、その時じゃないもの。あたしの愛しのカナちゃんも、今は首をとるのは難しいわ。でもチャンスは来る。その時は必ずとってね?」
「了解した」
「セイジくんに制裁を下すのが先か、カナちゃんの首をとるのが先か……ほんと、楽しみだわぁ……。これからもヨロシクね、アオイ」


 女は口惜しそうに、しかしはっきりとした否定の意を告げて、やんわりとアオイの手を取った。骨ばってはいるが白磁のような色彩と滑らかさとを併せ持っている彼の手。穢れを知らない透明感と冷たさ、そして少し力を入れれば容易く折れそうな危うさは、冬の有明にひっそりと張られた薄氷を彷彿とさせる。
 壊れやすい宝物をそっと抱き寄せるかのごとく女はその手を柔らかく包み込んで、小さく小さく、甘美に満ちあふれた囁きを口ずさんだ。


「……ううん、あたしの‘オモチャ’」


 いつの間にか、空気の流れは途絶えている。

 換気扇の微小な独り言も、もう聞こえない。


+ + + + +


 時を同じくして、セイジたち一行は巨人の間の内部に立っていた。
 さっそく狂気の虜となっている巨人と対面だ、と意気込んで無意識のうちに震えている身体を前に押しやった、のだが。


「‘間’っていうから部屋か何かかと思ってたんだが……まるで森だな」
「私も中に入ったのは初めてです」


 辺りは暗緑一色が広がる木々の群れであった。地にはよりいっそう鮮やかで幻想的な青緑の植物が光っている。呆気に取られているセイジの横では、ピエロが果たして驚いているのかどうかよく分からない反応を見せた。
 拍子抜けして一向に進もうとしない主人に対し痺れを切らしたのか、アンティークは今にも涙雲りそうな声で切実に訴えかける。


『なんか気味が悪いなぁ……早く巨人さん探して戻ろうよ〜……』
「そうだな、ごめんアンティーク」


 気の弱い相棒に要らぬ負担はかけたくないと思ったのか、セイジは分かれ道の右へと身体を向け、足元に茂る草花をさくさくと踏みしめ始めた。


(待ってろ、団長。……5つの間を回ったらすぐに、その面を拝んでやる)


 誰にも覚られることなく、しかし自身の中に確かな決意を灯しながら。









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