〔おじちゃん、ビッグのおじちゃん〕
――なぜだ?
〔だっこしてー!〕
――なぜ怒りが止まらない? 無邪気な声をあげる相手はまだ子どもだというのに。今までの自分であるならば、こんな感情を持つことなどあり得ないはずなのに。
〔かたぐるましてー!〕
――煩い。反吐が出そうなほどに、鬱陶しい。
〔おじちゃん、次のステージもがんばってね〕
――血が欲しい。熟れすぎてぐしゃぐしゃになった果実のような、真っ赤な、真っ赤な、血が欲しい。
〔ビッグのおじちゃん、だーいすき!〕
――血が欲しいなら、殺せばいい。……殺してやる。みんな、全員、殺してやる。
PIERROT 第2章 常に在りし、腕の内の温もりは
〜From‘Five rooms’ Giant of frenzy BIG〜 V
「で、でか……!」
『ほんとに巨人だぁ……。鎖で繋がれてるね。これも暴れるから?』
堂々たる威圧感を放つ巨人を眼前に捉え、セイジとアンティークは思わずそれぞれに嘆息を零す。
‘巨人の間’の主に相応しい巨大さを併せ持つ彼の身体は、広い間取りをもって作られているであろうこの部屋を一笑に伏すがごとく、圧倒的な存在感を孕んでいた。そこまで身長は低くないと自負しているセイジですら、彼の頭部を視界に収めるためには首を天井に差し向けなければならないほどの大きさだ。
アンティークが言うように、その身体には仄暗い照明を受けて鈍く光る無数の鎖が痕に残りそうなほどまでにきつく巻かれ、強い束縛を体現している。
不躾にも巨体を眺め回すセイジの脳裏をふと違和感が掠める――が次の瞬間、彼はその違和感の正体を思わず口に出していた。
「おい、こいつ両腕がないぞ!?」
背が常人より遥かに高いというだけでも充分驚きの要素を含んではいたが、違和感の原因はそれとは別の、もっと血生臭いものにあった。
人間ならば必ず携えているはずの腕が、ない。しかも両方だ。
傷口に閊えた痕がないため、恐らく両腕とも一太刀で切り落とされたのだろうというところまでは推察できる。だがそんなことよりも明らかなのは、切られた後、その部位に適切な治療を施された形跡がない、ということだ。
腕を切断されるだけでも想像を絶する痛みが身体を走ったであろうに、その上この切り口が今までずっと外気に晒され続けていたのなら……当然、傷が膿み、腐りゆく痛みをもその身に抱え込まなければならない。
事実、本来ならば腕が付いているはずの切断面はかなり腐敗が進んでいるようだった。見るからに毒々しい色彩が、彼の傷口の上でくすぶっている。
「おにいさんたち、なにしにきたの?」
突如として邪のない声が投げかけられ、セイジを始めとした一行は痛々しい風体の巨人から声の主へと視線を移す。そこには橙に近い鮮やかな茶髪の、純白のシャツと漆黒の吊りスカートを身に纏った子供の姿があった。今まで見ていたものがあまりにも大きすぎたせいか、この幼い少女は余計に小さいもののように思われる。
この部屋におよそ似つかわしくない人間を視覚に捉えたセイジの口からは、一切飾ることのない疑問が漏れた。
「え? このコも団員なのか?」
「子供の頃から訓練をうけるのはよくあることだ。私も生まれた時からこのサーカス団にいた……あんたが遅すぎるんだよ」
「あ、そうなのか」
「……おにいさんたち、ビッグのおじちゃんに会いにきたの?」
「ああ。ビッグに聞きたいことがあるんだ」
カナからの説明に一しきり頷いていたセイジに、小首を傾げた子どもが再び疑問を絡める。
セイジは膝を軽く折って子供と目線を合わせると、恐怖心を植え付けないよう緩く微笑んだ。もっとも、惨烈極まりないこの部屋の現状を前にしてまったく平気な様子であるこの子どもにとっては、何の前触れもなく踏み込んできた見知らぬ人への恐怖など微塵もなかったかもしれないが。
子どもは何かを言い淀むように俯いていたが、やがて顔を上げると、その大きな瞳でセイジをじっと見つめる。
「ビッグのおじちゃんを怒らないでね」
「?」
「おじちゃんは悪くないの。ずっと一緒に遊んでくれてたんだもん」
世の道理を知らない幼き少女の言葉は世の道理を知った大人が下手に発するそれとは違い、どんなにへし折ろうとしても決してそうすることのできないような強さが滲み出ていた。
「おじちゃんは悪くないの」。その一節には子どもながら巨人を深く敬愛する心と、「おじちゃんを悪く言う人は許さない」というまっすぐな心とが混在している。
(おじちゃんは悪くない、か。そういえば‘心の結晶’の中に入ってた記憶にもたくさんの子どもの笑い声が響いてたっけ)
夢とも現実ともつかないような意識の狭間で見た巨人の記憶を手繰りよせ、セイジは後方に佇むピエロへ首を差し向けた。
「どうやら一概に‘凶暴な巨人’とは言えなさそうだな」
「ビッグ……彼もまた、過去のピエロゲーム対象者でした。ただ現在凶暴なことに変わりはありません」
ピエロからの言葉を背に受けた人形遣いは軽い相槌を打ちながら視線を巨人へと戻しかけ、そのまま息を呑む。
それまで微動だにしなかった巨人の身体が、永い眠りから覚めたかのようにゆっくりと、しかし誰の目にも分かるほどはっきりと身じろいだからだ。もはや彼の肉体の一部と化している血で錆びた太い鎖が、身体の動きに反応して濁った金属音を立てている。
「……エリの他に誰かそこにいるのか?」
獰猛な獣が低く唸るように、巨人の声は静まり返った部屋の中にこだました。
即座に緊張を前面へと押し出すセイジたち一行とは真反対に、エリと呼ばれた少女は臆することなく気の立った巨人へと笑みかける。
「うん、おじちゃんに会いにきたんだって」
「誰でもいい。――ここにいたら殺すぞ」
「……お前にも色々事情があるんだろうけどここで殺されるわけにはいかないんだ。聞きたいことがある。団長がどこにいるか知ってるか?」
巨人から放たれる殺気に押し負けまいと目的を果たすべく一歩を踏みしめたセイジは、なるべく彼の逆鱗に触れないように声を殺して問いを結った。
一転、部屋の大気が感電したかのように激しく震えだす。
その正体は殺人衝動に駆られる巨人の、異様なまでに膨れ上がった狂気そのものだった。
「殺してやる殺してやる殺してやる! お前らみんな殺してやる!」
青年による精一杯の気遣いは、どうやら逆に巨人の気を思いっきり逆撫でしてしまったらしい。びりびりとした大気の痺れに付き纏われた一行は思わず二、三歩後ずさる。
『……え、なんで!?』
「話にならない。あんた一生ここで鎖に繋がれてなよ」
「そうですね。こちらとロクに会話をする気がないのなら仕方ありません。……セイジ、ここにいるのは危険です。戻りましょう」
アンティークの戦慄きを皮切りとして、カナとピエロはこの状況を最悪の事態への警鐘だと受け取ったのか、早くも身体を扉の方へと翻している。
セイジは唇を強く噛みしめると、薄明りに照らされて不気味にその姿を晒す、腕なき巨人を見上げた。彼の脳裏には、今まで見聞きした巨人についての様々な言葉と想いとが閃光のように走る。
〔はい。狂ったように暴れるので問題になっています。時にはなんの関係もない団員を殺してしまうほど……〕
〔ビッグのおじちゃん、だーいすき!〕
〔ビッグ……彼もまた、過去のピエロゲーム対象者でした。ただ現在凶暴なことに変わりはありません〕
〔おじちゃんは悪くないの〕
(確かにこれ以上ここにいたら命がいくつあっても足りないだろうな。……だけど)
だけど、ここで引き下がってしまって、本当に良いのだろうか。
自分たちもこのままで、巨人もこのままで、彼を慕っていた子供たちもこのままで、本当に良いのだろうか。
〔誰でもいい。――ここにいたら殺すぞ〕
〔優秀な団員と認められたことは大変嬉しいのですが私は最低限の訓練しかする気はありません。……私はただの大男です〕
〔殺してやる殺してやる殺してやる! お前らみんな殺してやる!〕
〔私は訓練よりも小さな子の相手をしている時の方が楽しく感じています。本当はこのサーカス団にいるべきではないのかもしれない〕
昨日から、一昨日から、ずっと前からまったく変わらない“このまま”をこれからも続けていて、本当に良いのだろうか。
〔だから――逃がさない〕
良いわけが、ない。
(余計な世話かもしれないけどな……この現状を捨て置いておくほど、俺は腐っちゃいないんだ)
変化がすべて幸福に繋がるとは決して言い切れない。変わらずにこのままでいた方が幸せであることだって、敢えてこのままでいる方が幸せであることだって、きっと山ほどあるだろう。
しかし、それでも踏み出したい。
一歩を。
どんなに小さくてもいい、下を向いていたって構わない。ただ確かな、一歩を。
(変わらないまま苦しみ続けるんなら、少しでも楽になる可能性を秘めた変化に賭けてみたって……悪かない)
大きく深呼吸をしたセイジは、決然とした面持ちでズカズカと巨人の前に歩み出る。
主人なら生き延びるために尻尾を巻いて逃げ帰るだろうと予測していたアンティークは、彼の腕の中で思わず声を詰まらせた。戸の取っ手に手の平を被せていたカナも呆然と成り行きを見守っている。
「お前が制裁を受けたのは聞いたけど……こんなとこに閉じ込められてんならどんなに優秀でもステージに立てない。もったいねぇことしてるよ」
控えめのつもりである先程の台詞でさえ、巨人の気を荒げるには充分なものだった。それが事実の指摘という最上級の棘を含んだ台詞となれば彼がさらに憤慨することなど、想像に易い。
だが、状況は想像よりも遥かに悪い方向へと傾いていた。
「お前に何がわかる!! 殺す!!」
巨人の激昂の意に従うようにして頑丈そうな血色の鎖がいとも容易く引きちぎられ、彼の身体がゆっくりセイジの方へと向けられる。
刹那、セイジの頭上に大きな影が落ちた。その正体は、巨人の足だ。
寸でのところで踵落としを避けた青年は慌てて巨人と間合いを取った。が、巨人の動きは彼のものよりも数段早く、すぐさま第二発目が長い脚から繰り出される。避けきれなかったその攻撃をまともに食らったセイジの肢体は、反対側の壁に思いっきり叩きつけられた。
「ちょ、待っ、何でこんな素早いんだよこいつ! ……っ痛ぅ、冗談キツイって……!」
『セイジ、しっかり! ……うわぁ、今の相当すごかったんだね……もう腫れてきてるよ』
アンティークの言葉通り、すごい攻撃を受けてぐったりとする青年がやっとのことで目を抉じ開けて見たものは、自分が受けたものよりもさらにおぞましい光景だった。
剛力を秘めた巨人の足は、無垢なる表情で立ち尽くす少女――エリを薙ごうとしている。元より巨人よりも瞬発力が低く、さらに手負いとなったこの身では、到底エリの所まで駆けつけられそうにない。
自分の無力さを苛みながら目を固く瞑ったセイジの耳に轟音が鳴り響き、衝撃で散り散りとなった砂塵が容赦なく降りかかってくる。これを食らったならば、大の大人でもまず複雑骨折は免れない。ましてやそれが十にも満たないような子どもであったら、命があるかどうかも危うい。
年端もゆかない子どもの死という惨状を目にする勇気を持てないまま、依然として瞼を下ろし続けていた青年は不意に、自身の横に細い影が着地したのを察して恐るおそる顔を上げる。
「私は止めたんだからね……話にならないって、言ったはずだ」
そこには無傷のエリを抱え、余裕ぶった表情でセイジを見下ろすカナが立っていた。人よりも優れた俊敏性と柔軟性を兼ね備えたこの少女によって、エリはあの巨人の攻撃から救い出されたらしい。
「私も警告しましたよ、ここにいるのは危険です、戻りましょう、と。言うべきことはちゃんと言ったのですから、後はあなたの責任です。間違っても私やカナを恨むようなことだけはしないでくださいね」
いつの間にかセイジの傍まで来ていたピエロは、攻撃によって傷ついている腹と叩きつけられて痛んでいる背中を治癒の光で包んだ。その効果は抜群で、脳髄までガンガンと響いていた痛みは嘘のように収まり、赤黒い腫れも少しずつ引き始めている。
「はは、まさか。……悪いな、サトル。もう大丈夫だ」
『ほんとに!? ほんとにもう動いて平気なの!?』
「だから、大丈夫だって。ったくお前は本当心配性だよなー」
ピエロの治療を途中で遮った主人を案じてか、アンティークは息せき切って質問を口走った。セイジは相変わらずな相棒の様子に苦笑すると、のろのろと立ち上がり短剣を鞘から抜いて構えを取る。
復活した人形遣いを横目で見やるカナは、不敵な笑みをその頬にたゆたえた。
「とにかく、この事態の原因は全部、あんたにあるんだ。だったら自分で何とかしてよね」
「了解。こうなることが予測できなかったわけじゃないんだが、ちょっとやりすぎたかもな……自分で撒いた種ながらすごいもんだよ、この状況」
「カナ、セイジ……そう悠長に構えてはいられませんよ。ビッグはもう既に、私たちを排除すべき敵だと認識しているのですから。私は後衛……サポートを務めますので、二人は安心して思う存分暴れてきてください」
締まった声を発したピエロに促され、二人は憤怒を露わにして咆哮をあげている巨人を睨みつける。次の攻撃が繰り出されるのは時間の問題だ。
呼吸を整え突撃態勢に入ったセイジに対し、踊り子は白い細腕で制した。
「あんたは人形抱えてる上に一発食らってる身だ、下手に前に出てうろつかれても邪魔。私が囮になる……奴に隙ができたら一気にカタ、つけて」
「分かった。……攻撃、食らうなよ?」
「あんたじゃあるまいし、そんなヘマしないから。それじゃ」
一言を捨て置くと、踊り子は腰元に挿していたクラブを巨人に投げつけて彼の意識を自身に向けさせる。極度の興奮状態にある巨人は一点以外の場所を見つめることができないらしく、カナに集中砲火を浴びせ始めた。
機転の利いた戦術を立てて勝機を引き寄せようとするカナに感謝し、セイジは残された二本の脚だけで殺戮を成し遂げようとしている巨人の背後にそっと移動する。
アンティークはその綺麗な顔の造りを歪ませることなく、主人に加勢する言の葉を零した。
『ちょっと巨人さんがかわいそうだけど……あたしは腕の切断面を狙うね。一番痛みを感じる部分はやっぱり、患部だと思うから』
「え、エグイことするな……もっと他の部位にした方がいいんじゃないか?」
『それはそうかもしれないけど、早めに巨人さんをなんとかしないとカナちゃんがへばっちゃうよ。後はセイジがうまくやってくれればそれ以上巨人さんを痛めつける必要はないんだし』
「……結局全ては俺次第、ってことか。よし、じゃあ頼むぞ、アンティーク」
ビスクドールはつぶらな瑠璃色の瞳に魔力を集中させて青白い光を巨人の腕の付け根へと放った。彼女の予測通り、腐りかけた傷口を刺激された巨人は激痛に耐えきれずのたうち回っている。
セイジはアンティークを床へ下ろすと、ナイフを手に巨人へと飛びかかった。咄嗟にセイジを蹴り飛ばそうとした巨人の脚がセイジの腕や頬を勢いよく掠め、血が滲み出る――が、その切り口は後方のピエロが発動した治癒の術ですぐに塞がっていく。
青年はナイフを巧みに使って巨人を壁まで追いつめると、一瞬の隙を掴み、巨木とも見違う太い首すれすれに刃を突き立てた。
「勝負ありだ。――抵抗したら、斬る」
青年の漆黒の瞳に孕まれている強大な‘何か’に殺人衝動を抑え込まれた巨人は、「斬る」という台詞が本気も本気であることを悟ったのか、ぐったりと壁にもたれかかった。元々不健康な色をしていた顔面はさらに蒼白となり、その表情には人間が持ち合わせているはずの生気など欠片も見当たらない。
巨人の暴走が止まったことを確認したセイジは短剣を鞘へ戻すと、長く濃い溜め息を吐く。
「……腕がないのがハンデだったな」
実際、両足だけでもここまで苦戦したのだ。この上両腕が付加された巨人と戦り合えば、あばら骨の数本は確実に木っ端微塵となっていただろう。
セイジの言葉に反応したのは他でもない巨人、ビッグだった。彼の弱々しい声が、冷え切ったこの部屋の空気を微かに震わせる。
「……こんな腕、ないほうがいい。腕があったらとっくにサーカス団の人間を皆殺しにしてるさ」
『な、なんでそんなこと思うの?』
「制裁を受けてから子供を見るとイラついてしかたねーんだ!! ぐちゃぐちゃにして殺したくなる!」
「それで目隠しをしてるのか……」
新米団員達の声を耳に収めていた巨人はゆっくり俯くと、そのまま力なく首を左右に振った。
「でももう遅い。何人か殺しちまった……! だから戒めに両腕を斬られた。アオイにな――」
「アオイってあの目つきの悪い銀髪の……」
セイジは以前ステージで会った、全身を黒衣で包んでいる青年を思い出す。
ひどく綺麗な白い肌を血で染め、常に身の丈程の大きな鎌を持ち歩いているため、一般の団員は彼のことを畏怖と敬意を込めてこう呼称していた……‘死神’、と。
暴れまわる巨人の両腕を事もなげに狩り落とす。まさに人心を持たない死神にこそ似つかわしい、血生ぐさい仕事だ。
アオイの名を聞いたカナは眉を寄せると、奴のしそうなことだ、とだけ素気なく言い放った。
「だが腕を斬られた後も身体はいうことをきかない。一度人を殺すと快感を覚える。殺戮を繰り返すうちに止まらない。もう今じゃ子供じゃなくても人間を見るとイラつくんだ!」
「殺戮の中毒ですね。残念ですがこれも彼の運命だったのでしょう」
「運命ですべてを片付けるなよ。……もしかして団長はこうなることを分かってたのか?」
眉一つ動かさずに涼やかな声音を鳴らすピエロに向かって不快感を募らせたセイジは、団長が巨人に手向けた「悪い団員にはお仕置きだ」、という言葉を脳内で反芻させる。
もし、お仕置きの真の目的が、巨人を殺戮という麻薬の虜にさせて一生涯苦しめることだとしたら。
もし、団長がそのことを解った上でピエロゲームという独りよがりな断罪を実行したというのなら。
(ステージに立って観客を喜ばせて、暇な時は子供たちの面倒見て、それが小さいかもしれないけどコイツにとっちゃかけがえのない幸せで……何も、何も悪いことなんてしてないじゃないか。コイツにだって夢やら希望やらがあったはずなのに、それをこんなに、)
こんなに、歪められて。
「お前も対象者なら制裁からは絶対に逃げたほうがいい……団長について言えるのはそれだけだ。――早く行ってくれ! お前らを殺したくて仕方なくなる……」
巨人の悲痛な叫び声を聞いて居たたまれなくなった人形遣いは、気の利いた台詞を探そうとしばらく口ごもった。が、思い浮かんだ言葉はすべて意味を成さない安っぽく浅はかなものばかりで、とても巨人の哀しみに釣り合うようなものではなかった。
長い長い沈黙の後に彼が巨人に対して唯一言えたのは、ひどくありきたりでひどく味気ない、分かった、というたったの四文字だけであった。
セイジは先に鋼鉄の扉の外に出たカナとピエロに続いて、むせ返るような血の臭いに満たされた部屋を後にしようとする。しかし依然として巨人をぼんやりと見つめているままの幼き少女に気を留めたのか、彼は最初に会った時と同様に少しかがんだ体勢で声をかけた。
「エリちゃんだっけ? ずっとここにいるのか?」
「うん、だってビッグおじちゃん好きだもん。きっとまた遊んでくれるもん」
「……そっか」
『エリちゃんがいてくれるから巨人さんは心までは奪われなかったのかもね。身体は拒否反応を起こしても、心の奥ではまだ子供が好きなんだよ。……巨人さんがなんとか理性を保っていられるのはエリちゃんのおかげだよ』
「そうだな。……なら、いつかまたビッグが一緒に遊んでくれる日もくるかもな」
アンティークの言葉に、青年は深く頷いて微笑みを浮かべた。たとえ現実が彼女の言葉通りでなかったとしても、そうであると……そうであってほしいと、祈りにも似た願いを抱かずにはいられなかった。
一方エリは、屈託のない、眩しいくらいに明るい笑みを顔面全体で目一杯に表現する。
「うん! ……そうだ、これ、拾ったの。エリは使わないからあげる」
少女が差し出したのは何やら奇妙な形をした、使用方法の分からない物体であった。見た目はマスクに似ているが、それにしてはふっくらとし過ぎている。
どうするべきか考え込んでいたセイジは、見るからに危険そうなものじゃないし、と手短に意を決すと、妙な物体を少女の紅葉手から受け取った。
「ありがと、それじゃ急ぐから」
「またね」
目を弓状に細め、ばいばい、と手を振るエリに向かって軽く片手を上げることで呼応したセイジは、巨人の間の外へと足を踏み出した。低く軋んだ声を盛大に立てながら、鋼鉄の守衛は元の位置へと収まっていく。
一際大きな、腹にずしんと響く音を立てて扉が完全に閉まったのを確認すると、青年は自身の背をそれに委ねて上を仰ぎ見た。
『……セイジ? 戻らないの?』
らしくない行動をとる主人を心配した人形が、囁くようにそっと問いかける。その主人は乾いた苦笑を頬に落とすと、そのままの表情でゆったりと目を閉じた。
「いや、さ。子供って強いな、って思って」
『エリちゃんのこと?』
「ん。新米でまったく知らなかったからってのもあるけど、俺、ビッグのこと勝手に解釈して……もったいねぇことしてる、とか無神経なこと言ってさ、怒らせて、アイツが最も嫌ってる殺人衝動を引きずり出しちまった。俺はアイツに……ビッグに対して、何もしてやれなかった」
『……』
「でもあの子はあれだけ狂気に囚われて殺人鬼になってるビッグを見てもまだ、おじちゃんは悪くない、って少しも迷うことなく断言してる。また遊んでくれるって、純粋に信じてる。……すごいよな、やっぱ」
『……』
「さっきお前が言った巨人さんがなんとか理性を保っていられるのはエリちゃんのおかげだよ、っての……間違いじゃないさ。あの子のためにビッグは今を一生懸命生きてるんだって、なんとなく、そんな気がしたから」
『……確かにエリちゃんはすごいよ。子供であるが故に、折れない純真さを持ってるから。でもね、セイジ……あたしはセイジがしたことだって、すごいと思うの』
予期せぬ相棒の物言いに、セイジは続けるはずだった言葉を咄嗟に引っ込める。
気落ちしている主人に対し、アンティークは精一杯の笑顔を声色に形取った。
『カナちゃんやサトルさんは危険だから巨人さんに関わるのはよそう、って言ったけど、セイジはそれを拒んで自分から巨人さんに歩み寄った。どんなに危険であっても距離を縮めて、関わろうと努力した。それって、すごいことだよ』
「アンティーク……」
『確かに巨人さんを暴走させちゃったのは良くないことだったかもしれないけど、セイジがしたことは絶対無駄にはならないから。それにね』
「……?」
『あたしはなにがあっても、セイジの味方だよ。だからそんなに自分を責めないで。そんなことされたら、あたしも悲しくなっちゃうよ』
相棒の頼もしい台詞を聞いた青年の、固く真一文字に結ばれた唇が、ゆっくり、ゆっくり、上を向く。
自分がやったことの真価は今はまだ分からないけれど、それは後々、自ずと分かるはず。
だから、進もう。ここで一生を送らざるを得なくなってしまった、心優しい狂暴な巨人のためにも。今この時を振り返るであろう未来の自分に、恥じないためにも。
「確かにアンティークの言うとおりだな……悪い、ちょっと気が滅入ってたみたいだ。――じゃあ、行きますか!」
大きく伸びをしたセイジは、普段通りの快活なかけ声を自身に入れ直すと、幻想的な緑の森をしっかりとした足取りで駆け抜けていく。
運命に導かれる者たちが立ち去った巨人の間には、梟の声が静かに、じんわりと染み渡っていた。
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