左腕にビスクドールをガッチリと抱きかかえた青年が、顔面を強張らせたまま仁王立ちしている。
そんな彼と対面しているのは、豪奢の極みと言っても差し支えないほどに華麗な装飾品で彩られているサーカス館の玄関だ。
「ここから館の外に出られるはずだよな」
『鍵はかかってないみたいだね』
カナとサトルには都合のいい台詞を並べ立てて時計の奥の部屋へと戻ってもらった。ここを出ていくと言ってもはばかるものは何もない。
置かれている境遇を一考すれば二人を自分から引き離すのは危険にして浅慮な行動であることなど百も承知であるが、ここから脱出するとなると元々サーカスの団員であった彼らを連れてはいけないと判断したのだ。
高ぶった神経を宥めるためごくりと唾を飲み下すと、覚悟を決めて片足を前に進めた、のだが。
「なんでだろう、出られる気がしない……」
開け放たれた扉からは新鮮で乾いた空気が流れてくるものの、寒さを感じるほどでないことは確かである。しかし投げ出された足はガクガクと震えて外界への拒絶を激しく訴えていた。
意図せずして自分の身体の制御がきかなくなった青年は、心の奥底から湧きあがってくる感情をそのまま垂れ流す。
「むしろ‘館の外に出たい’という気が、起きない……」
『きっと対象者が逃げないように何かのまじないがかかってるんだ』
主人の口から零れた言葉に驚きつつも、アンティークは考えうる範囲内での推察を冷静に述べた。
中途半端に踏み出した姿勢のまま硬直するセイジは、全身からじわじわと発される嫌悪感と吐気に苛まれ表情を苦々しげに歪める。
「だめだ。ここにいたくない」
意識を保っていられる限界のところでぱっと身を翻すと、あれだけ小刻みに揺れていた彼の足はいとも簡単に館の中へ舞い戻った。
意思に反抗する脚部をさすりながら恨めしそうに後方へ視線をやる。どうしても通り越すことのできない、キラキラと輝かしく温かな陽光に照らされた出口。
(ついさっきまでここを出る気満々だったのにな。……どう頑張っても逃げられない、のか)
否、逃げられないのではなく逃げようとも思えないのだ。
唯一あった選択肢と一縷の望みは、完全に断たれた。ならばなすべきことは最早、ひとつを残して他にはない。
セイジは沈んだ心でくすぶり続ける迷いを無理矢理捻じ伏せると、仄暗く冷えきったサーカス館の内側へと足を踏みかえる。
逃亡を決して許さない番人はあくまでも涼やかに佇み、遠ざかり消えゆく後背をただただ見守っていた。
PIERROT 第2章 常に在りし、腕の内の温もりは
〜From‘Five rooms’ Giant of frenzy BIG〜 X
新米団員たちは置時計の裏に鎮座する小部屋へと帰ってきた。正確に言うならば、帰ってこざるを得なかった。
疲れ切った様子でとぼとぼと歩くセイジの心境などお構いなしに、ピエロは軽やかな問いかけを唇に浸す。
「どうかしましたか? セイジ」
「……俺は会ったことないけど団長って酷い奴なのか?」
少なくとも自分にとっては酷い奴だ。
ただ入団しただけで他には何もしていないというのにピエロゲームのリストに載せられて。
ピエロゲームの掟を疑うことすらせず、むしろ喜んで従う団員たちに延々と命を付け回されて。
挙句の果てにはこの地獄を脱出する意思さえも剥ぎ取られて。
だのに状況打開に繋がる動きはほとんど掴めなくて。
……もう、散々だ。
そんなことを繰り返し思惟している自分の顔は余程情けないものだったのだろう、対するピエロのまとう雰囲気も心なしか暗くなった気がした。
「……こんなゲームを作るくらいですから大体分かるでしょう」
「とんでもないサーカス団に入団しちまったな……」
ピエロは団長を酷い奴だとは断言しなかった。しかし台詞の端々には諦観とも取れる柔らかな棘が含まれているように思われる。
セイジは勢いでここに入団した過去の行いを悔いに悔いながら、がっくりと項垂れた。いつにも増して覇気のない人形遣いを眺めたピエロはふむ、と考え込む素振りを見せる。
「団長のことならカナにも聞いてみるといいですよ。一応、彼女は団長の娘ですから」
その途端、弾かれたように青年の面が前を向く。それは先程までの青白いものとは似ても似つかない、血の通った色に染め上げられていた。
「え!? そんなこと聞いてないぞ!?」
「言ってませんから。ぜひ聞いてみて下さい」
立場上団長の情報を易々と得られない自分にとって、カナが団長の娘だと知れたことは大きな前進だ。
間に何気なく挟まれた‘一応’という語句が気にならないわけではなかったが、とりあえずはさて置いて、壁際に立つ少女へと歩み寄る。
「カナ、お前団長の娘なのか? なんで言わなかったんだ」
「別に。言っても変わらないし」
確かに娘本人は言っても言わなくても何ら変わらないのだろうが、ピエロゲームの対象者である青年には言われるか言われないかで大きく変わる事実なのだ。
いつもながら愛想のない返答に押し負けることなく、セイジは更に問いを重ねる。
「娘なら団長がどこにいるのかくらい知ってるんじゃないのか?」
「知らない」
「即答だな……」
「大体あんたの団長探しに付き合ってるのだって、私も団長に会いたいからだし。私も団長に……ユエに聞きたいことがあるんだ」
思い返してみれば、彼女は団長という言葉に反応して自分達と一緒に行動するようになったのだ。その理由については考えてみたこともなかったが、団長の娘だと分かった今となっては不思議なことこの上ない。
なぜ娘であるのに親の居場所を知らないのだろうか。サーカス館という籠の中であるのに親と連絡も取れないのだろうか。団長に何を聞こうとしているのだろうか。
だがそう軽薄に突っ込んでみてもいいものかと悩み、あー、うー、とまとまらない音を連発するセイジの腕の内で、アンティークは事もなげになけなしの気遣いを打ち壊す。
『聞きたいこと? それってなあに?』
「アオイが私の首を狙ってるのはきっとユエの差し金だ。アオイには‘自分’というものがない。まるで、ユエのオモチャのように。だからきっとアオイはユエに動かされているだけなんだ。なんでユエが私の首を欲しがってるのか……それを、聞きたい」
「なるほど。カナにも団長に会う目的があるわけか」
カナに相槌を打って背を向けたセイジは、なかなかに衝撃的だった答えを整理しながら思索する。
はっきりと言い切った少女の茶色い双眸は曲がりなく、嘘を吐いているようには見受けられなかった。今の話を信じるなら、いつからかは分からないにしろ、彼女は団長であり親でもある者から首を狙われ続けていたということになる。
「団長の居場所を知らない」というのも自身の安全を考えてわざと関わらないように仕向けた結果、もしくは親と子の関係が団長と一団員の関係にまで冷え込んだ結果だと考えれば納得がいく。
(しかしまあ、自分の子供の首を欲しがるって……一体どういう神経してるんだ、団長って奴は)
かくいうセイジには、両親と触れ合った記憶がない。故に親から向けられる愛情というものが分からない。もちろん祖父から大切に育ててもらった過去を忘れたことなどないが、それでも祖父と実の親では子への接し方、延いては愛情の向け方も変わってくるだろう。
幼い頃は何度となく「もしも両親がいたなら」という叶わぬ願いを仮定という形で思い描いた彼にとって、親がいることはそれだけで特別に感じられた。だから親は子に他の何者とも異なる愛情を注いでくれるものだと、無意識のうちに決めつけていた。
しかし親がいたとしても、それが自分の首を執拗に付け狙う狂者だったなら。
親がいたとしても、保身のためにその存在から逃げ続けなければならないのなら。
(……こいつも結構、苦労してるんだな)
自分は大勢多数の団員たちから命を追われ、少女は親とその手足である青年から首を追われ。どちらが不幸かと訊かれればどっちもどっちとしか答えようがない。
こんなところで共通したくはなかったが、自分と少女は案外似た者同士だ。対峙する相手は違えども、お互い喰うか喰われるかの戦地に身を置くことを定められてしまったのだから。
辿り着いた考えは自嘲であり、また少女への同情でもあった。苦しげに笑んだ人形遣いは卓上にアンティークを腰かけさせ、近くに据えられた大きなソファへ身を投げると閉じられた両目に片腕を被せる。
とにもかくにも今は、休みたかった。
「次は人魚の間に向かわなくちゃな……」
誰に向けるでもない呟き言は淀んだ空気に波紋を残して静かに拡散していく。
と同時に、摩耗した精神と疲労困憊した身体とを舐めまわすがごとく、睡魔がじわじわと這い上がってきた。
(これが笑い話で済めば……そう、すべて夢だったら良いのに。このままバカみたいに眠って、目が覚めたら何事もなく家に戻ってて、急いで支度してかったるい仕事に出かけて……そんな現実に、俺の日常に戻ってれば良いのに――)
外界への希望は断たれたと理解しているはずなのに混濁し始めた意識の中でそう望んでしまうのは、自分の弱さからか。
自己への問いに言葉を返す前に、彼の知覚は底知れない眠りの深淵へと突き落とされていった。
+ + + + +
小さき者に、大きな笑みを。
その切なる祈りは打ち砕かれ、粉塵へと成り果てた。
常に在りし、腕の内の温もりは消え失せて。
陽だまりのごとき笑顔は色褪せて。
狂いに塗れ、潰されども、未だ棄てきれないモノは――
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