いつもと同じように足取り重く家路を辿り、
 いつもと同じように軋んだ音を立てる門扉を開け、
 いつもと同じように錆付いてところどころ塗料が剥がれ落ちている郵便受けの中を確認する。
 ここ数年くり返しているうちに習慣になってしまった、無意識であって何気ない、どこか気だるげな青年の‘日常’だ。

 ところが、郵便受けのフタを開けた青年は無言で首を捻る。
 いつもと同じならばそこには何もないはずだった。しかし今日は何故かいつもとは異なり、一通の郵便物が横たわっているではないか。
 さらにその薄汚れた封筒を引っくり返してみると、宛名の欄にははっきりと青年の名が記されている。
 青年によってやや乱暴に引っぱり出された中身には、機械的な文字でこう刻まれていた。


‘おめでとうございます。貴方は見事、我らがサーカス団への入団資格を取得されました。我らは貴方を新たな仲間として迎えましょう――’


「……何だコレ。俺、いつの間にこんな資格取得したんだ?」


 捻った首はそのままに、青年の口から疑問の呟きが零れる。その手には言い知れない緊張感からか、うっすらと汗が滲んでいた。


 思えばこの時から、青年の‘日常’はすでに狂い始めていたのかもしれない。






“非日常”との邂逅
〜The tricks played by destiny〜






『……だからといって本当にこの話を受けるとは思わなかったよ、あたし』
「いいじゃんか、別に……手紙だけじゃなくてサーカス団の最寄り駅までの切符も入ってたんだぞ? なのに無視したら普通に失礼だろ」


 見る者すべての視線を留めさせる美を湛えたビスクドールの声に対し、青年は口を尖らせた。
 大して速くもない具合で走り続けている汽車から外に目をやると、くすんだ灰色の町並みは自分たちに近づき、一瞬の後に遠のいていく作業を淡々とこなしているように見える。そこからもう少し視線を遠くに投げると、雲という絵の具で厚塗りされたキャンバスの上に、雁か何かであろうか、鳥の群れが黒点となって描かれていた。


「ま、確かに怪しさ極まりない話ではあるけどな」


 自身の腕の中にすっぽりと収まっている相棒の意見に一旦頷いてから、青年は手紙の内容を思い起こす。
 正直を言えば、手紙の内容は胡散臭さをこれでもかと集めて塊にしたようなモノだ。
 なにせ入団資格を取得した覚えどころか、手紙の送り主であるサーカス団の名すら聞いたことがないのだから。それ故、何かの間違いだろうと何回も宛名や手紙を読み返したが、何度確認してみてもそれは明らかに青年に向けて提示されていた。
 そして青年には他にもう一つ、このとんでもなく良くできている話に乗ることを決めた理由があった。


「でもお前を使ってそれらしく見せることができれば一定の収入が確保できるんだろ? こんな話を持ちかけられたら断るワケにはいかないって」
『そんなこと言って……もしこの話に裏があったらどうするの?』
「その時はその時。今までの生活を考えたら裏があろうと何だろうと、俺にとっちゃ貴重なチャンスだよ」


 そう言った青年の顔はわずかに歪められている。それは一見すると苦笑であったのだが、人によっては青年が自身に向けて吐き棄てたような嘲笑に見えたかもしれない。

 物心がついた時には父と母の存在を知らず、青年は人形遣いであった祖父に引きとられ、育てられてきた。しかしその祖父も何よりも大切に守ってきた人形――アンティークを託して程なく、この世を去った。
 唯一の肉親であり、また生きていく上で必要な金銭を稼いで保護してくれる者であった祖父の死は、幼い齢である彼でも容易に理解することが可能なほど衝撃的で、また現実味を帯びた人生の節目、だったのだ。

 それからのことは、はっきり言ってよく覚えていない。
 しかしなぜ今まで生きてこられたのか、と問いかけられたなら、‘ただ一つのことを除いて、生きるためなら手段と方法を選ばなかったから’、と答えるだろう。
 稼ぎ手である祖父が死んで金が底をついた時に、ものの道理も判らない餓鬼であった自分にできたことなど、たかが知れている。
 どんなに辛く苦しい、奴隷のような仕事であっても文句を言わずに引き受け、ただただ身を粉にして働き続ける――その他に、手立てはなかった。そうやって得たはした金で一日分の食糧を買い、不安だらけの明日へと命を繋いで過ごしてきたのだ。

 それなりの歳になった頃には相棒であるアンティークの扱いも手馴れたものになり、彼女の比類なき美貌を武器にそれなりな額の金を集めることも可能になったが、やはりそれだけで満足な生活はできない。アンティークを使った仕事の時間外には、ありとあらゆる場所で日付が変わるまで働くことが‘日常’となっていた。
 だが文を読む限りでは、どうやらこのサーカス団に入団して成果を出せば、今まで得た報酬で築き上げた‘日常’よりも遥かに良い生活が保証される、とのことではないか。
 ウマい話を与えられて裏があるだの危険だのをあれやこれやと考えるほど、青年の精神は立派にできあがっていなかった。


『それにしても遠いね……最寄り駅までこんな長い距離があるなんて思ってもみなかったよ』
「ああ。俺、もしこの切符が入ってなかったら絶対このサーカス団に入団しなかったと思う。最寄り駅までの切符だけでも洒落にならない位の金がかかるし」
『……お金に対してはシビアな考え方だね』
「あと生き抜くことに対しても、な」


 切符の確認に来た駅員がこちらを訝しげに窺っているのに気づき、慌てて口をつぐむ。
 うっかりしているとすぐに忘れてしまうが、アンティークの声を聞いて話すことができるのは青年ただ一人――言いかえると、他人にはアンティークの声がまったく届かないのだ。つまりはアンティークと喋っていると、周囲の人々からの冷視が容赦なく突き刺さる、ということで。
 人々には彼女の声が聞こえていないのだから当然といえば当然ではあるが、やはりできることならば変人扱いされるのは避けたい。
 青年は駅に着くまでアンティークと会話するのはよそう、と決めた。


+ + + + + + + + + +


 どす黒い煙を吐き出しながら走り続けていた汽車は徐々に速度を緩め始め、やがてススキが生い茂る寂れた駅に停車する。青年はさほど多くもない自分の荷物を手早くまとめ、アンティークをしっかり腕に抱え直してから足をプラットホームへと落ち着けた。
 二人が降車した途端に、埃色の車体を翻して出発していく汽車。どうやら彼ら以外でこの駅に用のある者はいないと見受けられる。


「しっかしまあ、見事に何もない駅だな」
『ほんとに……。あ、でも今は公演中じゃないんじゃないかなぁ? だとしたらこんなに人がいないのも頷けるよ』
「それにしたって寂れすぎてる気もするけど。……とりあえずもう日も暮れるし、さっさとサーカス団まで行くか」


 駅に降り立った当初はあまりにも寂しいその風景と空気に何か引っかかるものすら感じたが、さすがに半日以上を汽車の中で過ごした彼の身体はだるさを隠しきれないらしく、青年の両足を目的地へと向けさせた。
 さらに悪いことに、周りはもう茜の一色で染め上げられている。首を左右に動かして確認してみたところ、街頭は指折って数え切れるくらいの本数しか立っていない。日が沈めば視界はほとんど闇そのものに支配されてしまうだろう。
 不慣れな地であるのに、案内人すらいない状態で視覚が麻痺するのは危険以外の何者でもない。そう感じた青年は重たい身体を引きずるようにして、手紙に添えつけられていた地図を頼りに、一歩一歩、地を踏みしめ始めた。

 そうして歩み続けること二十分、疲れきった青年の目に飛び込んできたのは、広大な敷地に大門を構えた、奇妙な形の建物だった。正面に建っているのは装飾や看板からしてステージであろう。
 安堵感からか、青年の表情が少しばかり柔らかくなった。やや小走りになりながら、敷地内に足を差し入れる。


「つ、着いた……じいちゃん、俺、頑張ったよ……」
『ちょ、ちょっとしっかりしないと! ここで倒れちゃったら入団早々他の団員さんの迷惑になるよ!』


 アンティークは大門を潜り抜けただけで今にも倒れこみそうな主人を叱咤激励した。人形故、その顔は通常と寸分違わず麗しいままだが、声色は明らかに情けない青年に対する呆れと周囲の視線を気にする焦りで構成されている。
 落ちかかってきた瞼を無理矢理こじ開けた青年は、やっとのことで自らを建物の中へと収めきった。


「お待ちしておりました。貴方が今日から此処の一団員となる方ですね?」


 疲労の二文字に潰されていた青年の耳にも不思議なほど明晰に通る声。
 その声の主を探そうと青年が辺りを見回すと、そこには――


「……アンティーク、俺は今、じいちゃんがいる世界に居る心地だ」
『うん……言いたいことはすごく分かるけど、現実逃避しないでほしいなぁ』


 疲弊した青年の脳細胞では、この現実を見据えられなかったのも無理はない。
 何故ならそこにはプラカードをもったくまが、こちらを向いて先程の明晰な声を発していたからである。
 魂が抜けたような表情で立ちつくす青年を前にしてなお、正体不明なくまはきびきびとした語調を変えることなく言葉を投げかける。


「お部屋はもうご用意致しております。お疲れのようでしたらそちらにご案内しますが、お疲れでなければ先に館内をご案内した後、団員の皆様に貴方をご紹介したい次第に存じます」
「おいおい、これが‘お疲れでない’状態に見えるか? ……悪いが、部屋があるならそっちに案内してくれ。もうクタクタだ」
「畏まりました。それではお部屋の方にご案内致します」


 言い終わるや否や、くまはプラカードを掲げたままズカズカと長い回廊を進み始めている。その言葉は例の手紙同様に機械的で、その動きに無駄は一切ない。


「……疲れてるこっちの身にもなってくれ……てか、何でくまなんだよ……」


 弱々しくツッコミを呟いた青年は荷物をずるずると引きずりながら、今や回廊の角を曲がりかけているくまの後を追いかけた。


+ + + + + + + + + +


 無事部屋に辿りついた青年は、ビスクドールを丁寧に机へ下ろすと、整えられたベッドに身を沈める。
 今の青年に、休む以外の何かを行う気力など残っているはずがなかった。


『もう寝るの?』
「ああ……疲れた、から。ごめん、手入れ、明日でいいよな……?」
『うん、あたしは大丈夫。それじゃぁお休みね』
「ん、お休み……アンティーク」


 二言三言を相棒と交わすと、青年の意識は深く深く、寝台へと吸い込まれていった。


(一日かけてわざわざここまで来たのは、日常にほとほと嫌気が差してきていたから。ここに来れば、今までの生活から逃れられるから。ここなら、今までよりも幸せに人生を送ることができるかもしれないから……)


 夢に落ちる直前に青年の頭の片隅に浮かび上がった思考は、これからへの希望的推測に過ぎなかった。
 それでも青年にとってその瞬間はここ数年間で感じたことのない――否、感じることすら許されなかった、至福そのものだったのである。


 それから十数時間も経たない後に、青年はこの思考がまったくもって浅はかで、馬鹿げたものであるのを思い知ることとなる。


+ + + + + + + + + +


 真っ白な空気の中に、二つの人影が見える。
 一つは立派な髭を蓄えた老人のもので、もう一つはまだまだやんちゃ盛りの少年のものだ。


〔じいちゃん、いつもその人形持ってるね〕
〔ああ、この人形か。名前をアンティークといってな、わしの世界でいちばん大切な人形なんじゃ〕
〔ふーん……〕


 得意げに見せられた人形と老人に向かって、少年はきょろきょろと交互に視線をやる。


『……、――……』


 ふと、彼の耳は自分のものでも祖父のものでもない声を拾う。それは高く、優しく、例えるものが見つからないほどに深く甘やかで、きらきらと澄みきっていた。
 もしも天上の世界、楽園が存在するのなら、そこに住む少女の声はこんな響きをしているのかもしれない。そう思いながら少年は事実を唇から滑らせる。


〔あれ、その人形なんか喋ってるよ〕
〔お前、アンティークの声が聞こえるのか!?〕
〔うん。聞こえるよ〕
〔そうか……そうか!!〕


 人形なのに、なぜおしゃべりが聞こえてくるのだろうか? しかもそれを聞いた祖父は何とも言えない複雑な面持ちで、けれどひどく嬉しそうに微笑んでいる……この人形の声を聞くということは、そんなにも特別なことなのだろうか?
 至極当然な疑問を前に頭を捻らせる孫の、素直な返答にひとしきり頷いていた老人は、腰を屈めて少年の目と自分の目とをまっすぐ合わせた。


〔よし、今日からアンティークはお前にあげよう〕
〔えー、人形なんていらないよ〕
〔まぁそう言うな。きっとお前の力になってくれる〕


 どうせくれるのならもっと面白いものが良いのに、と最初は人形を手にすることを渋っていた少年だったが、祖父の言葉と切実な瞳を見るうちに、それが祖父の願いなのだ、と漠然と感じ取ったらしい。
 少年は老人に向かって、特上の天真爛漫な笑顔を呈した。


〔うーん、わかった。じいちゃんありがと!!〕


 差しだされた少年の腕に人形をしっかりと抱かせながら、老人は念を押すような、強い口調で少年に語りかけた。


〔大切に、大切にしてやってくれな〕


 最後に祖父は自分の名前を呼んでくれたような気がするが、そこから先は、額縁の中に飾られた絵から弾き出されてしまったような感覚しか残っていなくて……


+ + + + + + + + + +


 ゆったりとした過ぎし日への回顧を終えた青年に向かって、記憶の中と微塵も容貌が変わっていないビスクドールが声をかけてきた。


『どうかした?』
「いや、なんでもない。ちょっと昔のこと思い出してただけだ」


 翌朝、気分よく起床した青年はアンティークの顔や手足を布で丹念に磨きあげ、彼女の金の髪を櫛で梳かし、自身の身なりを整えてから控え室に身を置いていた。控え室ではステージ手伝いのバニーなど数名がソファでくつろぎ、談笑している。目覚ましの飲み物を一杯もらってカウンターの席に腰かけ、最初の一口を運んだ青年は、そのまま遠い昔へと想いを馳せていたのだ。

 それにしても、祖父のアンティークに対する思い入れの強いことといったら、青年とは似て非なるものがあった。おぼろげに記憶を手繰り寄せるのも難しい今でさえ、祖父の気持ちそのものは人形を通して青年に伝わってくるように思われる。
 青年は、もう一口飲み物を喉の奥に流し込んでから、苦笑した。


「俺がアンティークと一緒にサーカス団に入ったこと、じいちゃんが生きてたら何て言うだろなと思って。きっとアンティークを見世物にするなんてとんでもない! って怒るんだろーな」
『さぁ、どうかなぁ?』
「じいちゃん、ほんとにお前のこと大切にしてたからなー」
『えっ、今も大切にしてくれてるんじゃないの?』


 ひとり納得している様子の青年に対し、アンティークは驚きの声を発した。
 青年はカップの中で小さく細波を刻んでいる飲み物をすべて飲みほす。そして突然気づいたように辺りを二、三度見回してから、今までより数トーン声を低くして相棒に向かって口を切った。


「……言っておくけど周りから見れば俺は人形に話しかけてる怪しい男なんだからな」
『はいはい、そんな目で見られても側に置いてくれるぐらい大切にしてもらってるのね』
「俺ほんとに根暗な奴になったらどうしよう……」


 少し皮肉ったように完結したアンティークを見て、青年は深くため息を吐いた。周囲はまだ、愛らしい人形に向かって一人芝居をしている妙な男を危険人物として認識していないようだが、自分がこのサーカス団でも変人のレッテルを貼られるのはそう遠くない話であろう。病は気からとはいえども、鬱な気持ちにならざるを得ない。
 無理矢理にでも明るい性格を作ろうか、と実行性のない人格形成プランを練っていた青年に、目に優しくない緑で全身を覆った男が歩み寄ってきた。


「よ! お前、昨日入った新人だろ?」
「あぁ、まぁ……」
「そんなモン持ってるってことは、人形遣いか。しっかしえらく少女趣味な人形だな」
「こいつ使って演戯できりゃいいんだろ。見た目なんざどうでもいいだろが」


 服飾に始まる見た目からの期待を裏切らず、軽い調子でなれなれしく声をかけてきた男に、青年は素っ気なく応対した。こういう輩にいちいち手間暇を割く必要はないと、経験で知っていたからだ。
 一方男は憮然とした青年の態度に少しも動じず、退廃的な控え室の空気と調和しない崩れた雰囲気で、なおも会話を繋げていく。


「おいおい、甘くみるなよ〜。言っておくがウチは厳しいぞ?」
「俺は人形の相手してるだけで金もらえるなら不満はないな」


 生き延びるためならプライドをかなぐり捨ててでも大抵の仕事をこなしてきた。……そう、あの来し方の生き様を顧みれば、ここでの生活に不満など出るワケがない。

 青年の漆黒の瞳に垣間見えた炎を見逃さなかったのか、男は一瞬たじろいたようであった。が、すぐにへらりと破顔する。


「あっはっは! おまえ大物になるかもな! そういや名前まだ聞いてなかったな。なんていうんだ?」


 青年は一回瞳を閉じる。そして開かれた彼のそれは、不思議な光を湛えていた。
 今となっては、その中に秘められしは待ち受ける未来への決意だったのか、覚悟だったのか。……真意は誰にも、解らない。


「――セイジ」


 刹那、腹の底から不快感を吐き出したような、耳の奥にまでねっとりと残るブザーが大音量で鳴り響く。
 同時に、館の人々の顔面には狂信的な、そして猟奇的な高揚が鮮やかに映しだされた。


「……なんだ?」


 何も知らない青年が口をついて出した言葉に呼応するように、開幕ベルと、男性とも女性とも似つかない無機的なアナウンスとが軽やかに彼の鼓膜を撫ぜる。



――只今より ピエロゲームを始めます。――



 アナウンスと共に迫り来るのは次第にその音量を増す、ゲーム開始を喜ぶ拍手。それは、突風にあおられた大波が地を飲み込むがごとく、館のすべてを一つ残らず狂気で満たしていく。
 青年――セイジは、途端に薄れ始めた意識の中で、止まることなく館に広がっていく異変をかすかに感じ取っていた。
 しかしそれも一瞬のうちにかき消えて、辺りは陽のない世界へと変貌する――



 運命がいたずらに、微笑をたゆたえた。








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