(……まずい、な)
唾液を飲みこむ音が耳の奥で疼く。頬を伝った冷や汗が顎から滑り落ち、服に小さな染みを作る。
こちらは人間三人と人形一体、追い回してくる団員たちは現時点で数人。数だけでは負けるべくもないが、問題はここが逃げ場のない一本道ということだ。
後先を顧みない自分の行動を悔いてひたすらに逃亡を図っていたセイジは、眼前にさし迫った等間隔の四つの扉に気づいて小さく舌打ちを零した。
戸の向こう側に何が待ち受けているか分からない以上、下手に突撃したくはない。しかしこのままでは行き止まりにぶち当たって万事休すとなり、団員たちの思惑に嵌まるのは必至だ。
(こうなったらヤケだ、もうどうにでもなれ!)
どうせ戦わねばならないのなら、少なくとも狭くて思うように身動きが取れない通路よりは広さと奥行きのある部屋の方がマシだろう。
潔く意を決し、彼は人形を抱えていない方の手で古びた真鍮の取っ手を素早く回したのだった。
PIERROT 挿話
〜Momentary Interval 〜 T
後ろにカナとサトルを引き連れ、セイジは鬼が出るか蛇が出るか、と身構えつつ先頭をきって部屋に足を踏み入れる。
しかし彼の黒々とした眼に映ったのは妙なまでに明るく、妙なまでに色鮮やかな内観だった。
人の身長を軽く超えている巨大なテディベア、さらにピンクに緑、オレンジの可愛らしいテディベアが床に敷き詰められ、壁にはひょうきんな顔をした操り人形がぶら下がっている。アンティークには劣るもののなかなかに美しいビスクドール、赤子が使うような小さい木馬は、タンスの上に据え置かれていた。
しかし色とりどりの異空間で一際目を引いたのは、無数の人形ではなく、中央に座っている人間だった。
お洒落とは世辞にも言えない右頬のペイント、逆立てられた髪に細く剃った眉、極めつけはやや焦点の定まっていない三白眼と、瞼に塗りたくられた緑のアイシャドウ。
――こんな奇抜な出で立ちもさることながら、たった一人、手元のぬいぐるみに不気味な笑いを捧げている彼の姿は、とてつもなく異様な雰囲気を醸し出していたからである。
「ウヒヒ……オレのクマちゃん……」
しかもぬいぐるみを愛おしそうに撫でながら危なげな独り言まで零す始末だ。とりあえず、怪しすぎる。怪しいという言葉の枠を全力ではみ出す勢いで、怪しすぎる。
「な、なんだお前? 気色悪い奴だな」
内心を思わず吐露してしまったセイジは、突っ込む対象があれば律儀に突っ込まずにはいられない、自身の性分を激しく恨んだ。
当然、相手は気だるげな視線をこちらに向ける。ところが手元のアンティークを認識した瞬間、分かりやすいほど明らかに表情に光が差した。眼の色が変わる、という言い回しを細部まで体現したかのような豹変っぷりだ。
「!! その手に持ってる人形! ちょっと見せてくれ!!」
「アンティークをか? やだよ、お前みたいな変態に」
「流れるような金髪! 吸い込まれるような青い目! 雪のように白い肌! お願いだよぉ〜……見せてくれよぉ〜……ウヒヒ」
『ぞぞ……何この人? あたし人間だったら鳥肌たってるよ』
相棒が心底怖がっているのを察し、今にも掴みかかってきそうな勢いでまくし立てる男から距離を取る。彼らが火花を散らしている様子を一瞥したピエロは、なだめるように新米団員の肩をそっと叩いた。
「人形遣いのヨシタカですよ。極度のドールジャンキーなんです」
「人形遣い!? こいつがか!?」
「よかったネ。仲間ができて」
カナに覇気なく「こんな変態と一緒にするなよ」と反論すると、彼女は含み笑いを浮かべる。完全にからかわれているのだ。
腹立ちまぎれに下を見やれば、部屋中に所狭しとちりばめられた沢山の人形たちが‘現実から目を逸らすのは許さない’とばかりに視界を遮ってきた。不愉快なことこの上ない。
「悪い人間ではありませんよ。ただ人形が異常にに好きというだけです」
「まぁ確かに殺意は感じないけどな」
『あたしは別の感情を感じるけどね……』
そんな他愛ない会話を耳に挟み、セイジがピエロゲームの囚われ人になっていることを勘づいたのか、ヨシタカは突如勢いよく立ち上がった。
「オレはピエロゲームなんかに興味ない! あんなのをやるのは狂った奴だけだ!」
「お、イカれた外見してる割に言ってることはマトモじゃねーか」
非常識な風貌の輩から飛び出した、ゲームが始まってから久しく聞いたことのなかった常識的な台詞につい感嘆が漏れてしまう。
‘人を見かけだけで判断してはいけない’とはよく言ったものだ――
「オレが興味あるのは人形だけだー!!」
――と、幼い頃に叩き込まれた教訓をしみじみと噛みしめていたのも束の間。後に続いてきた台詞は寸分違わず非常識なものだった。やはりこのサーカス団は全体的に狂っており、ズレている。
先程よりもいっそう肩を沈めて前言撤回、と小さく呟くと、後方からピエロによる柔らかい調子のフォローが流れてきた。
「まあ待ってください、この部屋の人形はすべてヨシタカの手作りです。彼にアンティークの丈夫なドレスを縫ってもらえばダメージが減らせるかもしれませんよ」
「お、それいいな。作ってくれるか?」
「さんざん変態呼ばわりしといてそれはないよねぇ?」
「……ぐ、悪かった」
気色悪い、変態、イカれた外見。確かに今までの自分の発言を振り返ってみるとなかなか、どころかかなり酷い。青年は遠慮という配慮を微塵も滲ませなかった態度を少しばかり反省し、謝罪した。
対面する男は上手に出られると分かって気を良くしたのか、腕を組んで踏んぞり返る。
「ま、同じ人形遣いのよしみで作ってあげないこともないけど? それにそんな愛らしい人形ちゃんのドレスが縫えるなんて幸せだしねッ! でも条件つけていいかな?」
「条件?」
「人形やぬいぐるみを見つけたらオレにくれること! 代わりにドレスを縫ってあげるよ。くれた人形がオレの好みであるほどいいものをつくってあげる。ちなみにオレが一番好きなのは……やっぱ着せ替え人形だよね〜、クスクス」
持ってきた人形の良し悪しで品質を変えるとは現金なようにも思えるが、報酬分の働きをすると考えれば何も文句をつけることはない。
首を縦に振って条件を呑んだセイジはふと思考を巡らせ、ズボンのポケットを探った。巨人の間に広がっていた森にて拾い上げたものの中に、天使を模った人形が入っていたのだ。
「じゃあ早速だが、これなんかどうだ?」
「おっ……お前! それは人形じゃないか!! ねぇ、くれよぉ〜。その人形オレにくれよぉ」
「ほらよ。その代わりアンティークの防具になるような服を作ってくれ」
「OK★ ヒヒ……何を作ってあげようかな!」
放り投げられた人形をがっちりと握んだまま、ヨシタカは喜々として裁縫箱を手に取った。そしてアンティークに合わせた型紙をどこからともなく用意し、厚地の布を手際よく裁断すると、小物入れから引っぱってきたフリルとレースをふんだんに使って裾を飾り立ててゆく。
あまりに洗練された所作を前にして唖然とする一行をよそに、作業はとんとん拍子で進められた。十数分後、彼は清々しいまでに晴れやかな笑顔とともに豪華な人形用の洋服を呈する。
「完成ッ!」
「す、凄いな……ここまで徹底的にやる奴だとは」
「また何かあったら持ってきて、楽しみに待ってるよ〜ウヒヒ」
『……あたしヨシタカさんが作ったドレス着るの、ちょっと嫌だなぁ』
達成感に満ちあふれ上機嫌のヨシタカ。しかし贈り物を受け取って最も喜ぶべきであるアンティークはまだ彼を信用しきれていないのか、主人に向けてぼそりと抵抗してみせた。
するとタイミングを図ったかのように、足を踏み変えたセイジの背中へドールジャンキーの独特な節回しが降りかかる。
「それ、ちゃんと人形ちゃんに着せてあげないとダメだゾッ! ウヒヒ……」
『――』
「……アンティーク、我慢だ我慢。自分の役に立つと思って……ほらむしろ発想の転換で、利用してやるから感謝しろってくらいの心持ちで、な?」
麗しき表情のまま絶句した相棒を懸命に励まし、青年は床を侵食する無数の人形を器用に避けて、戸口へと向かったのだった。
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