【 Tranquillante 】


 遠い過去に埋もれてしまった、昔話をしましょうか。
 あれは、そうね、連合国家独自の色がまだ根強く残っていた頃だったかしら。元はアニールという名の公国が在った地域にしばらく伝わっていた話よ。勿論今は国も無くなり、もうすっかり忘れ去られてしまっているけれど。
 では、始めても良いかしら?


 アニールのと或るところに、煉瓦造りの、大層に立派な屋敷があったの。其処には成り上がりの富豪が住んでいた。当主には正妻の他、何人かの愛妾がいて、子息と息女の数は十五を越えていた。

 どの子も見目良く可愛らしい子ばかりだったのだけれど、当主は彼ら一人ひとりを別の部屋に入れて、他人と接触させないように軟禁した。
 理由は平たく言ってしまうのならば“人間観察”のため。……ええ、当主は商売にかけては類稀なる才を発揮する、また人を圧し、動かし、束ねることに長ける剛腕の持ち主だった。しかしその一方で冷酷無情なまでに好奇心旺盛だった。故に彼はふと考えついてしまったのでしょうね。「親を含めた“人間”に接することなく生きる子はどのように歩き、話し、育っていくのか」と。そしてその貪欲な興味の矛先は、不幸にも彼自らの血を分けた子供たちへと向けられてしまった、というわけよ。

 当主は食事も着替えも玩具も、子供たちが欲しいと望む“物”は何でも惜しみなく与えた。けれども“人間”との交わりは最低限のものを除いて一切与えなかった。我が子をこの手で育てたい、一目だけでも見たいと哭き縋る母たちでさえ、完全に子供たちから遠ざけた。
 その結果、子供たちのほとんどは成人の齢を迎えられなかったわ。死因は心に異常をきたした果ての発狂によるもの。或る子は言葉らしい言葉すら発することができぬままに、或る子は笑うことも泣くことも知らぬままに、或る子は己の殻に閉じ籠もって終ぞ現実に戻らぬままに――形は一様でないものの、共通しているのは「どんな病魔よりも毒よりも恐ろしい“孤独”に蝕まれて散った」ということ。無理もないことだけれど、辛うじて成人した子供たちもその先を生き長らえるのは難しかったようね。
 次々と子供たちが発狂死していく、この経過観察を通して、当主は「“人間”と接触せずに、会話せずに育った子は“人間”には成り得ない」という結論を出した。彼の好奇心は答えを出したことで満たされ、以降彼は「用済みの実験動物(モルモット)などどうでも良い」と言わんばかりに手酷い仕打ちを施し続けた子供たちを放り出し、次に面白みを見出した事柄に首ったけになった。

 此処でお終いにしても良いのだけれど、それでは後味が悪くてつまらないでしょうし、折角なのだから続きまでお話しましょうか。

 当主が興味を失ったから、軟禁を解かれたからといって子供たちの傷が癒えるわけもなく、彼らはその後もひとり、またひとりと狂い死んだ。中には部屋から出されたことに大きな衝撃(ショック)を受けてそのまま、という子もいたというのだから、無闇に外へ引きずり出して人と触れ合わせれば何とかなるというものではないのね。
 そして当主の子供はとうとう最後のひとりとなった。齢は十四ほど、腰まで伸びたバーントシェンナの天然パーマの髪とアッシュグレイのぱっちりとした瞳が印象的な女の子だった。名は? ……ごめんなさいな、私、名には頓着しないもので気にかけすらしなかったわ。
 ともあれ、彼女の母や使用人たちは、彼女だけはしっかりと“人間”に育て上げようと決心した。家の跡継ぎのためにも、果敢無くなってしまった兄弟姉妹たちのためにも。だから軟禁されていた場所から無理矢理動かすこともせず、少しずつ“人間”に慣れていけるように最大限の配慮を加えた。
 それでも“孤独”はやはり、長い年月をかけて確実に彼女の精神(ココロ)を破壊していた。彼女が為すことといえば、お気に入りの少女人形にたどたどしくも繰り返し話しかけること。そして返るはずのない少女人形の声を聴き無邪気に笑い続けること。母や使用人といった“人間”と話をしないわけではないのだけれど、彼女はあまりにも齢に対して幼すぎて、大人たちとは上手く意思疎通が図れなかった。彼らの言葉は彼女にとって意味の分からない呪文のようなものに過ぎず、彼女の言葉は彼らにとって意味を成さない戯言のようなものに過ぎなかった。互いの間に横たわり沈黙を守る溝は努力などでは埋めようがないほどに、途轍もなく深かった。当然のように互いが互いの言わんとしていることが理解できなかった。
 こうなると必然的に、彼女と“人間”との関わり合いが密になることは無くて。彼女は軟禁時代とほぼ変わりない生活を送らざるを得なかった。

 でも、貴方たちも良く識っているように、転機は大小の違いはあれど何時の世にもどの者にも等しく訪れるもの。
 例外なく彼女にも大きな転機が訪れた。

 それはほんの些細な出来事だった。彼女が大切にしていた少女人形に傷がついて、少し割れてしまって、彼女はとてもとても大きな悲鳴を上げたのよ。唯一無二と言っても過言でない自分の理解者(タカラモノ)が破損してしまったのだから仕方のないことかしら。
 屋敷の者たちは何事かと驚き、心配し、慌てて彼女の部屋に飛び込んだ。悲鳴を上げていた彼女は青褪めた顔で人形を差し出した。人形が壊れていることに気付いた彼らはそれを修理し元の状態に直して、彼女に戻した。
 たったそれだけ。それだけのことではあったのだけれど、彼女にとっては初めて自分の思いが相手に伝わった、自分の思いに反応を返してもらった瞬間であり、これが最初の“人間”との真っ当な対話だったの。

 この時から彼女は事あるごとに金切り声を上げるようになった。
 嬉しい、悲しい、怒っている、苦しい、怖い、恥ずかしい、愛しい……自分の中に渦巻くどんな感情も言葉では伝わらないから、全てを悲鳴に託した。可哀想に、あれは余程大きい経験だったのね。悲鳴を上げれば何でも“人間”に届く、“人間”と会話の形を取らない会話が出来ると信じ込んでしまっていたなんて。

 或る時、豪奢な部屋のバルコニーの窓越しから、私は彼女に訊いたわ。「貴女は何時までそれを続けるつもりなのかしら?」と。
 私の言葉をきちんと理解したのか理解していなかったのかは分からないけれど、彼女は鳥のように可愛らしく小首を傾げて「ずっと」と答えた。ふわり、バーントシェンナの長髪が風と戯れていた。
 だから私は「ずっと続けると言うのなら、くれぐれもその悲鳴に注意なさいね。周りの者たちも、貴女も」とだけ忠告して、その場を去った。きょとんとしたアッシュグレイの汚れぬ丸い目に背を向けて。


 母親や使用人たちも当初は、彼女が悲鳴を上げるのは自分たちとコミュニケーションを取りたいからだと解釈をして、その声に注意を払い、彼女の理解者となるべく耳を傾けた。
 しかし毎日、来る日も来る日も、しかもどうでもいいような末端のことにまで上げられる尋常でない声に、彼らは段々と嫌気がさすようになった。何人かは彼女の薄気味悪さに耐えられないことを理由に屋敷を辞した。残った者たちも彼女の悲鳴を放っておく回数が次第に増えてきた。
 けれども彼女は彼女の言葉通りに「ずっと」続けていて、構ってもらえる数が減ったからといって止めようともしなかったし、他の手段に訴えようともしなかった。止めることで精神(ココロ)の支えを失ってしまえば彼女は脆くも崩れ去ってしまうのでしょうし、他の手段に訴えようとも何も考えつかなかった、という理由もあるかもしれないわね。

 そしてその日は、来るべくしてやって来てしまった。

 彼女の部屋の燭台が、何かの弾みで倒れてしまったの。燭台に掲げられていた蝋燭は跳ねて床に転がり、高価で色鮮やかな絨毯を燃やし始めた。
 火が時に命を脅かす危険なものだと知らなかった彼女は、しばらくその光景をぼんやりと眺めていた。けれども勢いを増して燃え広がる炎と喉を突く黒煙を前に本能が警鐘を鳴らして、ようやくこれが非常事態なのだということに気が付いた。
 彼女は甲高い声で叫んだ。彼女に出来ることはそれしかなかった。まあ、この状況では彼女以外であっても叫ばずにはいられなかったでしょうけれど。
 一方、屋敷の者たちは溜め息を吐いてうんざりしたわ――「ああ、またあの悲鳴か」とね。この時もう既に、彼らは叫び声に慣れきっていた。そしていつものことだと決めつけて、誰も彼女の部屋の様子を見に行こうとも、近寄ろうともしなかった。

 彼女は火事のことを伝えようと叫んで。何の反応も返って来ないことに焦り、怒り、また叫んで。火事の恐怖と無反応の恐怖に押し潰されたくなくて声の泉が枯れるまで叫び続けて。
 ふと首を回せば、彼女はその腕に少女人形をしっかりと抱えたまま、屋敷の外に飛び出していた。自分が駆け抜けてきたところを振り返れば、屋敷の至る所で何かが爆ぜる小気味良い音がして、屋敷の至る所に煙が充満しているようだった。三階の奥、自分の部屋だったところを見れば、其処からは一際大きい、どす黒い赤が止め処なく湧き出していた。
 放心しきってしまってその場にへたり込んだ、虚ろな光すら湛えないがらんどうな双眸をした彼女の肩を抱いて、その耳元で、私はそっと優しく囁いた。


「愚かな子、愚かな“人間”たち……だから忠告してあげたのに。ずっと同じことしか繰り返さない“不変”の先に待ち受けるモノは“滅亡”でしかないのよ。貴女が、“人間”たちがもう少し注意深く賢ければ、こうはならなかったかもしれないわね?」


 私の言葉をきちんと聞いていたのか聞いていなかったのかは分からないけれど、彼女は微かに頷いて、糸で吊られたように立ちあがって。そのまままっしぐらに門の外へと駆け出していった。
 煤けてしまった洋服を纏うその姿はみるみるうちに小さくなって、平穏そのものの風景と同化していったわ。


 昔話は此処でお終い。どうかしら、少しは貴方たちのお暇潰しになって?
 ……その先のこと? 申し訳ないのだけれど、私は知らないの。彼女とは其処でお別れだったから。あと私に語れることといえば、屋敷は全焼、彼女の悲鳴を疑いもしなかった屋敷の者たちは逃げ遅れて、当主ともども一人残らず焼け死んだ、ということくらいかしら。
 もしも興味があるのなら、彼女の家であった場所に行ってみることをお勧めするわ。屋敷は煉瓦で造られていたこともあって、全焼したとは言え当時の形を留めて遺っているところもある。実際に焼け跡を見てみればどれだけ悲惨な火事だったかが分かるかもしれないわね。ただ、大勢の人を屠り単なる廃墟となった豪邸を気にかける者などいなかったから、今は無数の雑木や雑草に塗れて見つけにくくなっているとは思うけれど。


 あら、そろそろ行かなくては。私は私のやるべきことをやらなくてはね。
 ……え、結局私は誰なのかって? ご期待に沿えない答えになってしまうのだけれど、先程言ったように私は名には頓着しないの。それが他人であれ自分であれ。だから私には名など無いわ。そんな下らないことは早く忘れて、貴方たちは貴方たちの時間をしっかりとお生きなさいな。


 それじゃあ、ね。また何処かで会うことがあるのならばその時にお話しましょう。
 ああ、そうだわ。貴方たちにも最後に忠告してあげようかしら――






<W 甲高い鳴にご注意を>


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