【 Intervallo  IV → V 】


 第三幕につきまして、ワタシが知っているのはここまでです。
 こうして彼女は彼女を閉じ込めていた堅牢なる屋敷から、彼女の渾身の悲鳴を受け取ろうともしなかった愚昧なる屋敷の者たちからようやく絶ち切られて、まだ見ぬ外界へと羽ばたいて行けたのでしょう。
 彼女の兄弟姉妹の中には外界に対して激しい拒絶反応を起こした者もいたようですが、幸いにも彼女はそのような壊れ方をしてはいない。
 声が枯れてしまったとは言え、数日、長くとも十日ほどあれば声帯は元のように震え、また悲鳴を上げることもできるはず。そうすれば多かれ少なかれ人の聴覚を揺るがせることができ、それに対する反応を――畏怖や拒絶であったとしても――狩ることができますから、精神の支えは保たれ、彼女の世界は秩序を取り戻す。
 彼女の母や使用人たちが望んだ“人間”には成り得ずとも、彼女が望むままの対話は続けてゆけるのですね。めでたしめでたしです。


 ……え? どこがめでたしなんだ、と?
 真っ当な“人間”に育て上げようと豪語しておきながら、彼女の唯一の対話道具である悲鳴を疎んで放置する無責任も甚だしい“人間”たちから離れられた、好ましき流れでございましょう。例えその先に繋がっているものが、語り手の女の言うように注意不足なる“不変”がもたらす“滅亡”でしかないのだとしても。
 寧ろ、他の兄弟姉妹が“人間”に話しかけも話しかけられもしない、あるいは“人間”に話しかけられても対話の術を持たないが故に黄泉路を辿ったことを一考すれば、彼女は生き延びただけでめでたしであったに違いありません。


 皆さまの中には、かの有名な『嘘をつく子供』……『狼と羊飼い』、とも言いましたでしょうか。自業自得の悲劇的結末(ウレタシ)を迎える寓話に近しいものを感じられた方もいらっしゃるかもしれませんね。ええ、「ずっと」同じ騒ぎを繰り返し信用を失った羊飼いの少年が、本当の騒ぎの際は助けてもらえずに狼に喰い殺されてしまった、あの話でございます。
 だからと言って誰が彼女を責めることができましょう? 悪戯をけしかけるために声を上げた少年とは異なり、彼女は相手と意思を通わせたいがために声を上げ続けたのですから。まあ、どちらにせよ“反応を得たい”という動機に大差は無いのですけれども。
 人は相手が在ってこそ存在し得るもの。相手との対話を通して己の存在を実感するもの。他人は自分を映す生き鏡、自分は他人を映す生き鏡。互いの反応無くしては、時に生命の維持すら覚束なくなる。
 いやはや、“人間”とは実に厄介にして面倒、脆弱な生き物でございますね。


 さて、第三幕を最後までご覧いただき、ありがとうございました。
 本日の演目も半分のところまで差しかかって参りましたね。この先もご覧いただけるのならば本望でございます。
 それでは幕間でまたお目にかかれることを祈りまして、第四幕を開けさせていただきます。





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