【 Illusione del puntello passato 】


 壊れきった灰色の街に、灰色の太陽が昇り、沈む。それは私たちを温かく励ましはしないし、かといって冷たく嘲笑いもしない。代わりに傍観を決めこんで、ただ昇り、沈むことを延々と続けて、この街をこの街たらしめる色に染めていく。
 変化が世の掟であるとしても、他のどんなものが変わっていったとしても、きっとこの光景だけはずっと変わらない、と私は思っている。少なくとも、私がここから去るまでに変わることはないだろう。
 見たこともない親が生まれる前でもこの光景は何ひとつ変わらなかったのだろうし、ここまで私がやっとのことで生きてきた中でもこの光景は何ひとつ変わらなかった。
 私が変わるきっかけとなったあの日でさえも、この光景は変わらなかったのだから。“兄”であり“戦友”であり“理解者”だった、誰よりも強く、誰よりも優しく、誰よりも頼もしく、誰よりも心を許した、そして誰よりも恐ろしかった、あいつを葬った日でさえも。


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 そう、私は少なからず変わった。変わらざるを得なかった、ということもある。朝一番の仕事の帰りぎわ、ちょっとした寄り道をするようになったのも変化のひとつだ。

 足を運ぶのは、どうしようもなくボロボロな街の中でも特に、いつ崩れ落ちてもおかしくない建物が集まっている場所。その危険性ゆえに今は立ち入りを禁じられて固く封鎖されている場所。だけど抜け道を知っていて、それを使いこなしてきた私にとっては身をすべり込ませることなんてワケもない。

 路地裏の中ほどに着いたところで、私は手ごろな壁に背を預けてゆっくりと腰を下ろした。元は何らかの入り口だったであろうアーチの歪みが視界の端にちらりと影を落とす。
 大小さまざまに折り重なったガレキ、腐食した鉄骨、不吉そのものを溶かしたような色の水たまり、ゴミとなってあちこちに散らばる生き物たち、底冷えのする寒さ、ゴツゴツとした壁の感触、細い路地を吹きぬけて身を切り刻む風。今となっては他の場所と同じようで少しずつ違っているように感じられる、この場所のすべてに愛おしさにも似た懐かしさを覚える。


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 ここはその昔、よくあいつと“狩り”をやった場所。
 立ち入り禁止になる前まではあいつと……仲間ができてからはあいつと彼らと共に、ここの路地の細さや入り組みぐあい、人目のつきにくさを存分に利用して、文字どおり獲物となるヤツらを狩った。金や食料だけを目当てにすることが多かったが、不都合が生じればためらうことなくゴミの一つに加えた。
 仕方がないのだ。人道的なことを期待してわずかでも情けをかければ、一瞬にして我が身が地に伏せる。倫理だとか道徳だとか慈悲だとか、そんなキレイ事で飾りたて固められた白々しいものはこの街にない。そもそもそういったものの輪郭はひどくぼやけていて中身もひどくスカスカだから、“人間として”何が正しくて何が間違っているのかという判断もできやしない。
 私が言いきれるのは、狩り場として勝手が良かったこの場所には何回も、何十回も世話になったということだけ。この場所のおかげで灰色の一寸先を手にしてこられた、のかもしれない。

 それだけ使い古したところで愛着があったから、なのか。この場所を使っているころはまだ、あいつが私の知っているあいつであったから、なのか。
 あの日からしばらく経って、何とはなしにふらふらと立ち寄って以来、一人でここを訪れるのが日課になってしまった。
 訪れるといっても、もちろんすることなど何も持ち合わせていなくて、適当なところに座ってつかの間の時を適当にやり過ごすだけ。だけど獲物を追いこんで走った小路や、獲物の心臓を目がけて飛びかかる体勢を整えた隙間を見るにつけ、いつかの記憶が目の裏に点いては消え、消えては点き、私の意識を浮かせ揺らせて惑わせる。あわせて、あるかどうかも分からない私の中心部分は火傷の痕が膿んだようにじくじくと疼き、その痛みに喉が詰まっていく。
 普通に考えればどちらも不快なことこの上ない感覚。それでも、フシギなことに私はこの感覚を嫌だとは思わなかった。理由はきっとそれだけ思い出を強く感じられるからで、だからこそ私の心は私の身体をこの場所に向けて衝き動かすようになったのだと思う。ガラにもないことだとしても、ムダなことだとしても、「過去を顧みない」と戒めた私自身に真っ向から反するとしても。


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 目蓋を下ろして、肺の隅々にまでとどくように大きく息を吸いこむ。鼻をつき胸焼けを起こす腐臭に、四肢にまとわりつく沈んだ空気に、爛れたような甘さを感じる場所は、街のどこを探したってここ以外にはない。
 この道をまっすぐ、階段を駆けあがり、つき当たりを右手に。少し開けたところに出させて相手の気を緩ませ、他の小路から合流した者がその隙をついて狩りを成しとげる……次々と現れる記憶はどれも昨日のことであるかのごとく新しく、手で触れて確かめられそうにも思える。
 その中で、ひときわ鮮烈な――とはいってもこの街の証である灰色の縛りを受けてはいたけれど――あいつの姿が、じりじりと炙りだされてくる。路地裏で反撃にでた獲物へ向けて一気に距離を縮め、相手に恐怖など与える間もなく仕留める動きが、音が、生々しくよみがえってくる。


『守るために、俺達が生きる事を邪魔するものに俺は容赦はしない』


 枯れてヒビ割れた地面を這うような低さの、淡々とした、けれど濁りなく凛としたあの声が聞こえた気がして、目蓋を上げれば……私の視線の先に懐かしい、それは懐かしい、あいつの背中があった。
 うす汚れた肌と服に赤を走らせて、携えた刃から赤を滴らせて、路の一角に赤を踊らせて。
 灰色の砂を巻きあげる冷たい風に任せるままに、髪と服の裾とを舞わせて。
 背筋が凍るほどに無情な鋭い瞳をそのままに、穏やかな弔いの言葉を手向けて。
 決してがっしりしているとはいえないが、小さいともいえない背に、他のヤツらにはない圧倒的な、言葉にならないほどの“何か”を含ませて。


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 その背中は本当にここにあるのではないか、と。ここにあって手を伸ばせばつかめるのではないか、と。つかめば振りかえってくれるのではないか、と。振りかえって怒るでも殴るでも呆れるでも何らかの反応を見せてくれるのではないか、と。思わず立ち上がり目一杯に腕を前に突き出すも、それは虚しく空をきる。
 ……目の前にあったはずの背中は、跡形もなくかき消えていた。いや、元より“ない”背中を錯覚して“ある”と思いこんでいた、というのが正しい。記憶の海にのまれ投げだされたまま、私は幻に酔っていたのだろう。


「バカだな、私は。あいつがいるわけないのにね」


 自分と灰色の街とに言いきかせるように口にだすと、押しよせてきていた思い出の波が徐々に退きはじめる。どこかふわふわと漂って行き場を失くしていた意識をしっかりと拘束し、絞めあげ、心の奥底に埋め直す。まだ留まっていたい、流されていたいと軋みをあげて喰いこむ内なる声が響いたが、「余計なことだ」と捻り潰して振りはらった。
 そうだ、この路地裏には誰もいない。ましてやあいつがいるわけがない。分かっていることじゃないか、解っていることじゃないか。


「だって私たちが、私たちの意志で、あいつを殺したんだから」


 さっきよりもはっきりと、確認するように事実をなぞれば、全身に痺れるような緊張が通るとともに、追いやられた波に頑丈な蓋が覆いかぶさる。不快であるはずなのに不快でない、説明のしようがない疼きも痛みも感じなくなる。
 蓋をしたから感じなくなるのか、感じないように蓋をしているのか、と、どこからともなく疑問がよぎったが、それも「くだらない」の一言で廃墟の中に突き落とした。

 今日も私が私の手に収まる私に戻れたことに胸をなでおろし、ひとつ呼吸を捨ておくと、抜け道の方向へ踏みだす。
 そろそろアジトに帰らなければ仲間たちにいらぬ心配をかけてしまう。帰って、一日を生き延びるために誰が何をするべきかを話し合わなくてはいけない。いざこざが起こっていたら諌めなければいけない……そうならないに越したことはないけれど。


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 みじめに荒び朽ちた場所を後にする曲がり角に差しかかった時、未練がましい私の両目は無意識のうちに、もと来たあの路へと向けられた。
 そして、私は悟る――






<X 誰もないはずの路地裏に、>


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