【 Amore non corrisposto 】


 あるところに、お姫様がおりました。

 そのお姫様は、見かけは普通の少女と何ら変わりありませんでしたが、内には不思議な力を秘めていました。天気を自在に操る力です。彼女のたおやかな指先ひとつで晴れも曇りも雨も雪も決まってしまう、とても大きな力です。
 人とは異なる、大きすぎる力を宿しているという理由から、お姫様は外にほとんど出たことがありませんでした。しかしそのこととは別に、特にここ数年はまったく外に出ない日が続いていました。昔、外出した時に心無い人々や排他的な人々から深く傷つけられて、外が、人が、怖くなってしまったからです。それきり大勢の人の前には滅多に姿を現さなくなってしまいました。
 人智を超えた力を持つ、姿の分からないお姫様のことを、神様のひとりとして崇め奉る人も少なくありませんでした。事実、お姫様は普通の人間の中で普通の人間として暮らしていくにはいささか普通でなくて、どうにも馴染めそうにありませんでしたから、どちらかと言えば神様に近い存在だったのかもしれません。


 それでもお姫様はちっとも寂しくありませんでした。なぜなら、傍にはいつもある青年がいたからです。
 青年はお姫様が外に行かなくなった頃から、彼女が住む町はずれの館にやってきた人間でした。彼はあまり良い出自を持たず、さらにこの辺りでは珍しい魔法使いで、そのために外界で好奇と侮蔑の目にさらされたことがあるようでした。少し似かよった過去を共有するお姫様と青年が互いを認めあい、打ちとけるまでにそう時間はかかりませんでした。彼は持ち前の魔法を駆使して広い館の一切を取りしきり、かいがいしくお姫様の世話をしました。彼は一般的にいうところの召使という存在にあたるのでしょうが、お姫様にとってそんなことはまったく関係なく、良きお話相手として、気の置けない友人として、第一の味方として、また最上の理解者として、仲睦ましく一緒に暮らしていました。
 常日頃からお姫様は、青年にこう言っていました。


「傍から見れば、私は不幸せでかわいそうな子だ、と憐れまれているかもしれません。外が怖くて館にこもるなんて弱い奴だ、と蔑まれているかもしれません。けれど私は私をそういう風には思いません。この心身に受けた深い傷は癒えることはないでしょう。それでも貴方がここに居てくれるおかげで、今の私にはここにちゃんと私の“王国”があり、幸せがあるのですから」
「ありがとうございます、身に余る光栄です。僕は果報者ですね、他でもない貴女様にこう言っていただけるなんて」
「貴方はこれまでも、これからも、常に私の傍らにある……これは私の“王国”の絶対たる規律。そうですよね?」
「ええ、僕はずっと貴女様に仕えて参る所存です。どうぞ覚えていてください、これまでも、これからも、貴女様の喜びが僕の喜びであることを」


 すると青年は決まって優しく穏やかな声でそう言って、ほんの少しだけ曇った微笑みを返しました。その鈍色の笑みが指すところの訳を、お姫様は知りませんでした。この言葉で自分が彼を傷つけているのだろうかと勘ぐってみても、それは一瞬で消えてしまうがために追求するだけの間を得るには不十分で。さらに理由を知らずとも、生活をするうえで何の差し障りもありませんでした。
 そのためお姫様はそれ以上言葉をかけるのではなく、無邪気に青年に飛びつき、彼の顔を見ないようにしてそっと抱きしめるのでした。たった今まで確かにそこにあった鈍色が薄れるようにと、願いながら。


+ + + + + + + + + +


 あるところに、幸せなお姫様がおりました。

 自分の居場所を持つお姫様は、今の自分の生活に何ひとつ不満を抱いてはいませんでした。これまでもこれからも、ずっとずっと、青年と共に館の中だけで生きていくことに抵抗はなく、現在が現在のままであれば良いと感じていました。
 しかしその一方で、外の世界を知らなければならないと思うお姫様もいました。


(衣食住も、心の拠り所も、ここにいれば望むままに手に入る。でも嫌なものから逃げ続けて得た安寧、外と隔絶された籠の中の幸せ……これだけに充足していては、いけないのだわ)


 もともとお姫様は好奇心や探究心の強い性格でしたから、怖がって拒絶し続けていた外界への憧れというものも捨てきれずにいました。
 館の外の世界を知らなければならない、知りたい。その思いは日ごとに増してゆきました。
 ある日の慎ましやかな晩餐後、お姫様は、いつものようにお茶を用意している青年を自分のところへと呼び寄せました。いきなり呼ばれて頭上に疑問符を浮かべる彼を前に、お姫様は勇気をふりしぼって考えてきたことを伝えました。


「私……私、外に出てみようと思うのです」
「……。それは本気で仰っているのですか?」


 染みひとつない純白のテーブルクロスの上、明かりを煌々と灯す燭台に映し出された、あの鈍色の微笑み。
 けれど緊張しきっているお姫様はそんなことには微塵も気づかず、臆病な心を叱咤してはっきり答えます。


「もちろんです」
「左様ですか。何故今になって?」
「前々から考えていたのです。私はこのままでも幸せだけれど、このままではいけないと。外の世界はやはり怖いけれど、そこでの幸せも掴んでみたいと」
「ここでの、僕と二人の閉塞的な暮らしに、嫌気がさしたのですか?」
「いいえ、そんなことは。……外に出たいと、こう言っているものの正直、この館を出るのが不安で心配で仕方がありません。それでもこの世界に生きるひとりの人間として、私は私の殻を破り、踏みださねばならないのです。踏みだしたいのです。これは私の、長年の夢でもあります」
「貴女様がそうお決めになったのならば、僕に拒否する権利などない。貴女様は貴女様の夢の実現のために、お好きなようにされれば良い。貴女様の喜びが僕の喜び……僕はいつでも影から応援致しますよ」


 お姫様は、ほうっと濃い溜め息をついて、胸を撫で下ろしました。青年はお姫様が外に出られない訳について粗方は知っています。だからこそ彼が自分を気遣って頭ごなしに反対するかもしれないと思っていたのです。


(彼が応援してくれるというのなら、背を押してくれるというのなら、私の喜びを自分の喜びとしてくれるのなら。今度こそ私はきっとへこたれずに頑張れる、私はためらいなく外に出ていける)


 青年の言葉にこの上ない力をもらい、あふれるほどの希望で瞳を輝かせるお姫様。
 だから気づかなかった、いえ、気づけなかったのです。
 香りたつお茶を差し出した彼の手が、完璧な微笑の形をとる彼の口角が、ほんのわずかに、震えていたことを。


+ + + + + + + + + +


 あるところに、幸せを掴み始めたお姫様がおりました。

 先の宣言通り、お姫様は自らを守るために長くまとっていた分厚い殻を破るべく、自らの足で外界への一歩を踏み出しました。
 その道のりは決して平坦なものではありませんでした。何年経てど、心無き人間は思いやりを持たないまま、排他的な人間は己の受容を超えるものに拒絶を辞さないまま、氷のように冷たい態度で、棘のように鋭い言葉で、いとも簡単に他人を傷つけます。しかしお姫様は落ち込みながらもめげることはなく、どんなに少しであっても外の人間と関わりを持つように努めました。そこには、夢を諦めたくない、またそれを青年が支えてくれる以上は中途半端なところで終わらせるわけにはいかないという強い決意がありました。その結果、お姫様のことに興味を持ち、お姫様と時を共に過ごす人間がひとり、またひとりと増えていきました。
 彼らはお姫様との交流の中で気づいていきました。「彼女は神様のような存在で、普通の人間とまったく同じではないけれど、同じ部分だって沢山あるのだ」と――いえ、「そもそもこの世にまったく同じ人間など存在しないのだから、本来普通ということ自体ありえないのだ」と、「ちょっと自分たちと同じでないものを持つ彼女もまた、一個人として尊重すべき存在なのだ」と。


 外界での活動時間は日に日に長くなり、館にいる時間は日に日に短くなりました。けれど忙しない日であっても、館にいる時間が少なくとも、お姫様は必ず、外の世界のことを逐一青年に話して聞かせていました。
 外の世界の空気はどんな温度で、どんな味であったか。聞こえる音はどんな響きだったか。どんな動物を見たか。どんな花が咲いていたか。どんな町並みがあったか。どんな知り合いが、友人ができたか。彼らはどんな人間か。彼らと一緒に何を食べて、どんな遊びをしたか。彼らにどんなことを言われたか。彼らとどんな予定を立てているか。
 一言で終わるものもあれば、長時間に及ぶものもありましたが、青年はしっかりと話に耳を傾けて、時にお姫様を案じ、時にお姫様を励まし、時にお姫様を祝福しました。見る者すべてが満点をつけるであろう、ともすれば怖いほどに一点の曇りも無い微笑を、たゆたえて。


「貴女様の目にはそう映ったのですか。その気持ちはとても大切なものです、後々まで大事になさいませ」
「それは宜しくないことです、貴女様ご自身の口からきちんと謝らなければ。大丈夫、貴女様が行動を共にするほどの者達ならきっと分かってくれることでしょう」
「随分と面白い予定を立てられているのですね、僕も仲間に入れてもらいたいほどです。ですがくれぐれもお身体を十分労わられますように、お怪我をなさいませんように」


 お姫様は、彼がいついかなる時も真摯に向き合って答えてくれることをとてもありがたく、心強く、嬉しく思っていました。
 そして今夜も彼女は青年のもとへと急ぎます。とびきり素敵な出来事があって、彼と一緒に早くそれを喜びたかったのです。


「聞いてください、聞いてください。今日はいつも良くしてくださっているお友達の皆さんが、私達と一緒に暮らしてみないか、と言ってくれたのです。ここ以外で生活したことはないですから心配ですけど、外界に住処を移して暮らしていくのは私の夢のひとつでもありますし、せっかくのお招きです、か、ら……」


 前のめりになって転びそうなほど捲し立てていたお姫様の台詞は、何か違和感を感じたところを境に、急に失速していきました。そしてお姫様は肌に何かピリピリした刺激を感じていました。煮えたぎる熱さのような、それでいて感覚がなくなる冷たさのような。あえて例えるのであれば凍傷に近いような。
 それらすべての原因は、今にも消えそうな蝋燭が乗る燭台を手にした、無表情の青年にありました。


「左様ですか。ならば僕ももうここに居る必要はありませんね。今までお世話になりました」
「な……、そんなことは言っていません。貴方には今まで通り、この館を守っていてもらわなければ」
「今まで通り、と仰いますが。貴女様がご不在になる時点で既に、この館は今まで通りではありませんよ。僕の役目が終わりになるのは寂しいことですが、いつかこうなるのは分かっていたこと。致し方ありません」


 じり、じり、と。穢れなき真白い蝋燭が濁った音を立てて、少しずつ、すり減っていきます。
 思わず鳥肌が立ってしまうその不気味さと、彼からの別離の宣告のショックの双方を遠ざけたくて、逃れたくて、お姫様はわざとこの場に不似合いな明るい声を張り上げました。


「冗談はよしてください。まったく、戯れも過ぎるといくら何でも私だって怒りますよ!」
「僕が冗談で申しているとお思いなのですか? 平気ですよ、何も不安に感じることはありません。貴女様には新しい貴女様の王国が、世界があるのですから。館や僕のことはお気になさらず幸せになってください。どうぞ身体をお大事に。……お別れですよ」


 空回りした明るさとは対照的に、表情を変えることなく、あくまでも淡々と繰られていく、無情な単語の羅列。
 息が詰まるほどに膨れあがった、沸騰と氷結をぐちゃぐちゃにしたような肌への刺激。
 じり、じり、と。止まらない、置き去りにされた小さな灯火の末路を暗示する音。


(“これまでも、これからも、貴女様の喜びが僕の喜び”。かつて彼は確かにそう言ったはずなのに。私が嬉しいことは彼も嬉しいはずで、これまでずっとそうだったのに、これからもそうであるはずなのに。どうして今回は喜んでくれないの?)


 彼の薄い唇がそっと大気を食みます。これから青年が突きつけようとしている言葉など、混乱に混乱の色を塗り重ねたお姫様の頭でもすぐに理解できました。
 別れの決定打となるその一言を何とか押しとどめたかったのでしょう、お姫様は無意識のうちに彼の袖口を強く引っぱっていました。


「そんな……そんな規律を破るような真似、私は納得できません。この館は私の大事な世界で、貴方は私の大切な居場所です。それを失いたくはありません、絶対に」


 言い終わりと同時、あの不快な音が一際大きく響いて、かろうじて灯っていた蝋燭の火が消え去りました。緊張とともに高まった肌を刺すような刺激も、はたりと止みました。続いてお姫様と青年の周りには、静かな暗闇の帳が下ります。うつむいて返答を待つお姫様は正直なところ、ここで真っ暗になったことに少しだけ安堵していました。自分がしているであろう焦燥と不安に駆られた酷い形相を、従者である彼に見られずに済むと思ったからです。
 コチコチとひたすらに一定のテンポで歩く秒針の音を、どれくらい聞いたでしょうか。まどろみに落ちそうな静寂を不意に覚醒させたのは、青年の優しく穏やかな声でした。


「……可哀想なお姫様」


 ゆっくりと顔を上げても、夜にしっかりと隠された青年の表情は窺いしれません。安堵の常闇は一瞬にして不安の波紋を広げるものに豹変します。こんなにも近くに、真正面にいるはずなのに、ちゃんと袖を掴んでいるはずなのに、どこか遠くからこだますような彼の声だけが部屋を震わせました。


「貴女様は鋭く、賢く、聡い御方。けれど時に鈍く、莫迦で、昏昧だ」
「世界を広げた貴女様はもうすっかり変わられたと思っていましたが、まだ変わられていないところもあったのですね。……ああ、本当に良かった。僕はとても嬉しいです」
「わざわざ僕の方から貴女様の行くべき道を示したというのに、ご自分で道を断たれてしまうなんて、愚かの極み。けれどいっそ清々しいほどのその愚かしさを、実に愛おしく思いますよ」


 褒めているのかも、貶しているのかも分からないような取りとめのない内容。それは夢見心地、あるいは熱に浮かされて常軌を逸した鳴り方で、けれど至って平常であるかのごとくさらさらとこぼれ、流れてゆきました。
 “何かがおかしい”。
 そんな単純すぎることを今更理解しても、もう、手遅れであることに変わりはなくて。急展開した状況についていけず呆然と立ちつくすお姫様の手足には、カチャリと小気味よい金属音を立てる異質なものが絡められます。
 急展開を作り、異質なものを絡めた張本人は、いまだ覚めることのない暗がりの中でひざまずき、無表情を紐解いて薄く笑ったようでした。そして先ほどまで青年を離すまいと掴んでいたお姫様の手を、壊れ物を扱う仕草でそっと掴みます。今度は、彼が彼女を離すまいと主張するかのように。


「僕は“高嶺の花”たる貴女様のところまで這い上がれない。叫べど声は届かない、指先を掠めることすら叶わない。だからまだ貴女様が僕を必要とし、僕を望むのならば、」


 貴女様が僕のところまで、墜ちてください。


+ + + + + + + + + +


 あるところに、可哀想なお姫様がおりました。

 あの日絡められたのは、青年が事あるごとに浮かべていた微笑みの色と同じ鈍色の、鎖のついた枷。そのためお姫様は館の中だけしか移動することができず、昔のように外に出られない生活に逆戻りしてしまいました。
 枷は青年の魔法によって生み出され、その込められた力が強すぎたせいで物でありながら自我を持っていました。穢れを知らないお姫様の手足を無慈悲に拘束しながら、枷は己が作り出された時のことを思い返していました。


「彼女が外界に出始めたんだ。自分の心の中に築き上げた垣根を乗り越えて、夢を叶えるために。長らく一歩たりとも出ていないから最初はつまづくだろうけど、きっと上手くいくと思う。頑張り屋だし、一本芯の通ったひとだからね」
「僕としてはそれを応援したい。過去だけに縛られず、彼女自身の世界を広げようと前進していることをとても嬉しく思うし、成長を心から喜びたい。この気持ちは本当だ。だけど同時に……つまづけば良い、上手くいかなければ良い、と。そして手酷く打ちのめされれば良い、二度と立ち上がれなくなるほどに傷つけば良いと思う僕もいる。いや、今ではそう思うことのほうが、圧倒的に多い」
「だってそうすれば彼女はまたこの館だけで暮らして、僕だけしか関わらない生活に戻るじゃないか。見るものは、聞くものは、触れるものは、お互いだけ。僕と彼女の二人だけで完結された“王国”の玉座に君臨し続けられるじゃないか」


 うっとりとそう言い放つ青年の双眸に湛えられた恍惚の色はすぐに褪せて、かわりに自虐的な濁った色が浮かびます。
 その独特で複雑な色は、彼の手元にある枷をじわじわと侵食していきました。


「彼女の従者として、いや、人間として、愚かしくて浅ましい思いであるのは誰より僕自身が分かっているのに……ああ、僕は壊れてしまったのかな、狂ってしまったのかな。確かに彼女の喜びが僕の喜びだったはずなのに、心底からそう思えなくなってしまったなんて。確かに彼女の幸せが僕の幸せだったはずなのに、彼女の幸せを阻みたいだなんて。彼女の夢物語に僕がいないだけのことが、こんなにも辛いだなんて」
「ここで潔く諦めるのが最善の選択肢、なのだろうね。諦められないのなら、この気持ちに嘘をついて笑って送りだすことが、次なる選択肢。僕は彼女の相棒となるに相応しくない、不出来で卑しい者なのだから。所詮僕ごときでは彼女の傷を癒せやしないし、まして救えやしない、それどころか抉ることしかできないのだから。それを理解していながら僕は最善を選べない。嘘をつきとおすことができない。新しい世界で新しい者たちと築きあげる夢の道を歩けないのなら、僕は現の道を選びたい」
「彼女は僕というものに触れ、認め、定義してくれた、かけがえのないひと。この得がたい温もりを知ってしまった今、どうして彼女を手放せる? 一度恋しいひとへの愛しさと温かさを知ったこの身は、この心は……知らない頃にはもう二度と戻れないよ」


 加速する蝕みをただただ黙って受け入れる枷は、彼の目元が赤くなっていることに気づきました。
 今にも泣きそうな様でありながら、彼は決して泣くまいと気丈に振るまっているようでした。それは己に涙を流す資格がないことも痛いほどに知っているからだと、枷はすぐに感じ取ることができました。青年の力で構成されたためか、彼の感情はそのままそっくり枷に伝わり、枷に植えつけられた自我を揺り動かすのでした。


「僕が規律を破った上で、もしも彼女が僕との繋がりを完全に捨てると言うのなら、それはそれまでだ。彼女から不要とされた僕はもはや廃品(ゴミ)同然、この身を切り刻んででも諦めるより他にない。だけどきっと彼女は逃げる僕を引き止めてくれる。外界に飛び出したとはいえ、そこに自分の全部を委ねられるほど、彼女は強くないからね」
「そうしたら君を彼女に使うよ。それは破壊の時。今まで築いた王国が壊れ、これから来たる世界が壊れ、約束が壊れ、彼女も壊れ、僕自身も壊れ……すべてが壊れる時だ」
「その時が来るのがとてもとても恐ろしい。これはどうやっても正当化なんてできるわけがない、過去を崩して未来を奪う、取り返しのつかないことだから。籠の鳥として彼女を束縛してしまうから。そして同時にとてもとても、待ち遠しい。僕の所有下にある彼女は他の何より魅力的だろうから。君はあの柔肌に映えて彼女を美しく彩るだろうから。この歪みに満ちた矛盾こそが、僕が確実におかしくなっている証拠なのかな」
「……叶うならば、まっとうな恋をしたかった。まっとうな自分のまま、まっとうな相手をまっとうに想い続けて、まっとうに告白して、まっとうな応えをもらえる、プロローグからエピローグまでまっとうなシナリオを描く、そんな恋をしたかった」
「僕はいずれ近いうちに壊れてしまうだろうけど、この気持ちに偽りはないんだ。本当だ、本当だよ……」


 青年が目尻にためた水滴をひとつもこぼさずに、ネジの切れかかった人形のようにぎこちなく笑ったところまでで、枷はぐるぐるとめぐる回想をやめました。
 どんなに彼の言葉が異常に満ちていても、行動が許されるものでないとしても、枷にとっては創造主にして己を使役する者。さらに彼の苦悩と葛藤を知っているだけに安直に咎めることもはばかられました。そして自我を備えているとはいえ枷はどの道“枷”という枠を超えるものではなく、いかなる御託を並べたとて枷がお姫様の自由を阻んでいるのは紛れもない事実。


【結局、僕は。このままお姫様を繋ぎとめて、彼の幼く、嗜虐的で、臆病な欲望を振りかざす手助けに徹するよりないのだ。僕が今できるのは唯一、それだけなのだから】


 そんな逃げにも似た諦めの気持ちを抱いて、枷は今日も剥落しかけた彼女の精神を一枚、また一枚と、丁寧に削ぎ落としていきます。
 小窓の格子という額縁のなかに見える月はさながら本物の絵画にも似て、べたりと紺碧の背景に貼りつき、偽善者くささのにじむ嘲笑の光を落としていました。


+ + + + + + + + + +


 あるところに、可哀想な、とても可哀想なお姫様がおりました。

 枷によって行動を大きく制限されてしまったお姫様は、動ける範囲である館の中でさえ動きまわらず、食事もあまり喉を通りませんでした。こんな有様ですから当然のことではありますが、しだいに自分の部屋すら出られないほどに衰弱していきました。
 実のところ、お姫様の意思に反してその背にある翼をもぎ取るのは“禁忌”でした。彼女が生まれながらに持つ力は天候操作――広くにわたって甚大な影響を及ぼすもの。彼女の心身の均衡が取れなくなれば、自然の摂理が悲鳴をあげていともたやすくヒビが入ります。
 事実、突如として非日常の奈落に突き落とされたお姫様は己の力を制御することが難しくなり、外の世界では異常気象が頻発するようになりました。特に酷くなったのは風雨と気温の低下です。彼女の身体が痛み、心が冷えるのと比例するかのごとく、雨は何十日にもわたり降り続き、お天道様の顔どころか光の一片すら見えない日が多くなりました。

 そうして日を追うごとにやせ細っていく彼女の手足の上に、今日も枷は覆いかぶさっていました。小窓を隔てた向こう側では、ザアザアと涙の流れる音が絶え間なく続いています。
 ふ、と。普段ならば言葉を紡ぐことさえしなくなったお姫様の小さなくちびるが、微かに動きます。あれほど輝かせていた瞳をがらんどうにして、今や遠い遠い世界となってしまった外へと視線を遣りながら。


「……ねえ、私はどこで間違えた?」


 思った以上にか細い疑問の声は、少しもとどまることなく虚空に溶けていきました。


「私、私なりに頑張っていたのに。頑張って外に出て、皆さんとお友達になって、世界が広がったことが嬉しくて。そうすればあの人も喜んで笑ってくれるから、それがまた嬉しくて、頑張って。こうすることに何か、いけないことがあったのかしら?」
「ちょっとは勘づいていた、いえ、きちんと知っていた。あの人が慕ってくれていること。私も彼のことは大切で、だけど外の世界も皆さんのことも同じくらい大切で。それではいけなかったのかしら?」
「鎖に繋ぎ、枷をつけるなんて、正気の沙汰じゃない。おかしい、酷い、痛い、怖い。でもあの人を嫌いになることはできなくて、ただただ彼が哀れで、憐れで。それがいけなかったのかしら?」


 故障した機械がノイズを吐き出すかのごとく延々と続く、自問、自問、自問。枷はかつて主人にそうしたように、当然の論理であるように、ひたすら黙ってそれらを受容します。


「こうなってしまったのは誰のせいかしら? 私を壊したあの人? あの人を壊した私?」
「誰も嘆かない、傷つかない、分かり合って元通りになる道はないのかしら? 分かり合えないのなら、元に戻れないのなら、終わりはどこに、どこにあるのかしら? この歪みに満たされた生活は、私が、あの人が消えるまで続くの? お終いに辿り着きたいのならば、私は、あの人は消えなければならないの? 分からない、わからない……どうしたら良いの、どうすれば良いの?」


 しかし次いで出された、この問いかけを聞いた時。冷たい金属の塊である枷の自我は突如、かっと熱を帯びたように感じられました。


【……僕だ】


 それは、ぶらりと投げ出された問いかけに対する明白で単純な答えが、枷そのものの中にあるからに他なりませんでした。


【壊れなければ。壊れなければ。壊れて消えて、無くならなければ】
【消える必要があるのは彼でもない、彼女でもない。呪縛の鍵となる僕がここから消え失せなければ、幕引きはいつまで経っても訪れない!】


 自我を備えているとはいえ枷はどの道“枷”という枠を超えるものではなく、いかなる御託を並べたとて枷がお姫様の自由を阻んでいるのは紛れもない事実――こうなってしまったのは枷がお姫様を雁字がらめにしているからで、枷が消滅しなければこの悪夢は終わりになど到底辿り着けるわけがない。
 これが、枷が己の中に持つ答えでした。


【ならば、一刻も早い僕の破壊と消滅を。そして青年とお姫様に、この呪縛からの解放と平穏を】


 諦めしかなかったところから大きく揺さぶられた自我は、ぴたりと定まりました。最初からそこに収まることが決まっていたとも見ゆる、大切な主とその想い人への最善を願う形をとって。
 けれど往々にしてあることのように、心が定まったからといって現実は何ひとつ変わりませんでした。破壊と消滅を、解放と平穏をいくら望めど、枷は単なる物体に過ぎません。そのため枷自体の力ではそれらの望みのどれも叶えることができなかったのです。

 悲願を達成するにあたって、考えられる望ましい道はふたつ。一方は枷の生みの親である青年に、枷を外してもらうこと。もう一方は、第一の被害者であるお姫様に、枷を壊してもらうこと。
 前者はあまりにも非現実的な方法でした。枷の思いは魔法の力をとおして青年に届いているはずでしたが、すでに壊れてしまった青年はこの狂った行いを止めようとはしなかったからです。彼は己が間違っていることを、“禁忌”を犯すことを理解していながらなお枷を作り、今までに積み上げたすべてのものと引き換えに枷を使った人そのもの。荒れ狂った後にしんと凪ぐ海面にも似た、末恐ろしいほどに肝の据わりきった彼の覚悟の前に、枷はばかばかしいほどに無力でしかありませんでした。
 後者はともすればすぐに実行できそうな方法でした。が、枷がお姫様と話ができない以上、お姫様は枷の決意など知る由もありません。生ける屍となった彼女には青年が引きずる思いを正しく解釈するだけの、そして進んで拘束具を引きはがすだけの生気などあるわけもなく、やつれた心身でただただ与えられた今の状態を憂い、嘆くのみ。枷が何とか意思疎通を図ろうと幾度も念じ、語りかけても、これといった反応は得られませんでした。


【壊れたいのに、今すぐに壊れたいのに、それが僕がふたりへ唯一手向けられる救いなのに、自分のことさえ意のままに処すことができないなんて……】


 青年には伝わっているのに受け入れてもらえない。お姫様には伝えたいのに伝えられない。
 晴れない空。止まない雨。待ったなしで生成されていく、独りよがりな時の重層。
 時間で解決できない歯痒さと、時間に解決させたくない焦りを徐々に募らせてゆく枷。その裏には、鈍色よりももっと重たく沈みこんだ、性質の悪いもやもやとした色が鬱積していきました。


+ + + + + + + + + +


 あるところに、可哀想な、それはそれは可哀想なお姫様がおりました。

 例の夜からの日々は、お姫様にとっても、枷にとっても、苦しみと摩耗による疲弊の連鎖であり、気が遠くなるほどに長いものでありました。
 そして恐らく青年にとっても、そうであったに違いありません。彼は毎日飽きもせずお姫様を至高の宝石のごとく大切に、丁重に愛でて褒めそやすことをくり返しましたが、墜ちて壊れてしまった者同士、もはやこれまでのように心を通わせることはできなかったからです。
 しかしながら遅かれ早かれ否応なしに終わりが来るのは、古から例外なく続く万物の真理。そしてこの日々の終止符は、それまでの辛苦からすれば思ったよりも呆気なく打たれました。
 ピリオドを容赦なく叩きつけたのは、枷が「壊してほしい」と望んだ相手である青年でも、お姫様でもない、外界の者たち。彼らはおかしくなってしまった天の機嫌に振りまわされ、生活を脅かされ、肉体的にも精神的にもギリギリのところまで追いつめられていました。彼らは突然姿を消したお姫様と天候の乱れを結びつけ、“禁忌”が犯されてしまったことを察して、町はずれの館に駆けつけました。

 彼らは館をすみずみまでめぐり、その途中途中で金になりそうな格調高い調度品は期待をこめて懐にくすねながら、何にもならなさそうな物品は怒りをこめて手当たりしだいに壊しながら、お姫様を探しました。お目当ての彼女は小窓の下、大きな部屋の片隅で打ち捨てられたガラクタのようにうずくまっていました。その手と足とに這う気味の悪い鎖と枷を見つけた彼らは、この物体こそがお姫様を、天気を狂わせている犯人だと断定し、外しにかかりました。
 心を宿した枷が喜ぶかと思いきや、それは枷にとって、最も避けたい事態のひとつでしかありませんでした。


【嫌だ、嫌だ、これはお姫様と青年の問題だ。行きつく結果は同じであれど、二人以外の手で裁きを受けるわけにはいかない!】


 その譲れない決意の固さは、枷自身の固さにつながりました。彼らがどんなに叩けど捻れど、枷はそう易々とは壊れず、耳ざわりな甲高い音が鳴るだけ。
 思った以上に頑丈なそれを壊すために、外界の者たちは協力して力を加えはじめました。だんだんと亀裂が入ってきたことで勢いをつけた彼らは、一気に渾身の力を加えて――とうとう枷は、派手な音を立てて粉々に砕けたのです。

 お姫様は最初、信じられないといったようにぼんやりと“枷だったもの”を見下ろしました。ばらばらになったその物は、単なる金属とは思えないほどの多彩な暗色に染まっていました。なぜ枷がここまで饒舌な色彩をしているのかは、お姫様には分かるはずもありません。ですが自分を縛りつけていた物が、暗色といえどそれぞれに強弱や艶やかさが違う色をたくさん持ち合わせていて、見ようによっては綺麗であることは、少なからず心を打つ事実でした。
 そのまま呆然としていたお姫様を囲んで、もう大丈夫だよと、これでやっと外に出られるねと、これからは私たちと一緒に生きていこうと、喜びあう仲間たち。そのにぎやかさにつられてお姫様はようやく少しだけ口角を上向けました。それは笑みとは到底呼べない表情ではありましたが、血の通わない人形だった彼女の顔には確かに、わずかばかりの人の動きが戻ってきたのでした。

 神様のような人のお姫様は、なかば抱えられる形で、皆に支えてもらいながら久しぶりに館の外へ出ることができました。空は澄み晴れわたり、隠れていた分の務めを果たさんばかりに陽の光がさんさんと降り注いでいます。けれどお姫様が何度も何度もふり返ってくちびるを噛みしめていたのはやはり、長い時を過ごした家と、嫌おうにも嫌いきれなかった人のことが気がかりで、未練があったのでしょう。
 この様子を小窓から見つめていたのは、あの青年でした。彼はお姫様たちの姿が小さい黒点となっても、やがて見えなくなっても、見つめることを止めようとはしませんでした。好き放題に荒らされた洋館、己以外の生き物の気配が消えてしまった静けさの中で、ただひとりぴんと背筋をのばして佇んで。残念そうで腹立たしそうな、慈しむようでほっとしているような、嬉しそうで辛そうな、泣き笑いのような、ありとあらゆる感情をごちゃ混ぜにした面持ちで。最後の最後まで抵抗し、けれど外の者たちによって無残に砕かれた、今や物言わぬ想いの残骸を、なお大事そうにそっと握りしめて。


+ + + + + + + + + +


 ……そして、影ながらこの一部始終を取りこぼすことなく見届けていた者が、ひとり。
 ぬかるんだ土壌に惜しみなく慈悲を与える陽光を浴びせられて、その者は眩しそうに眉を寄せます。肌に心地良い爽やかな風が、艶めく黒髪をさらって遊ぶのを許しながら。


「今回は回避、か。まったく、とんだ手間をかけさせられたもんだ」
「下手に入れ込んで物に心など持たせなければすぐに楽になれたものを。過程など無意味にして無価値……所詮、決まりきった結末は変えられんのだから」


 ぞんざいに吐き捨てられた辛辣な台詞がどこか苦しそうに、寂しそうに聞こえたのは、単なる気の迷いでしょうか。
 ここはもう用済みだと言いたげに外套を翻して、その者は静かに町の外へ去っていきました。どこからともなく姿を現し、どこからともなく姿を消したその者の来し方と行き方を知るものは、何ひとつとしてありませんでした。


+ + + + + + + + + +


 あるところに、幸せな、可哀想な。そして今またその先を紡ぎ始めた、お姫様がおりました。

 長らく生活した館、そこにいた人間を完璧に拭い去れはしませんでしたが、周りの者たちが力を貸してくれたことが壊れた彼女の修復に良い影響を及ぼしたのでしょう。徐々に回復の軌道に乗ったお姫様はそれらをやんわりと風化させていきました。
 一方、青年のその後を追った者は誰もいませんでした。主のいない館に孤独に残り続けたとも、魔法の研究に没頭し始めたとも、新しい世界を求めて放浪の旅に出たとも言われていますが、結局彼がどうなったかはずっとずっと謎のまま。明かされることはついぞありません。
 しかしはっきりと、しっかりと分かっているのは、ただひとつだけ。
 あれほどまでに互いを信頼し、大切にしていたはずのお姫様と青年は、もう二度と接することも、言葉や心を通わせることもなかったということです。




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