【 Desiderio nel segreto 】


 とある少女は、ずっと前から欲しがっていた、かわいらしい箱を手に入れた。
 一目見て、なぜだかとても気になって、それからどうしても欲しくなってしまったのだ。偶然会った持ち主の青年にしつこく頼み、今日、ようやく少女の所有物となった。
 大きさは両の手の平にすっぽりと収まるくらい。材質は陶器で、ひんやりとした触感。色は薄紅を中心にまとまっていて、上下の部分は金の留め具でカッチリと噛み合わされている。ぱっと見ではジュエリーボックスか、コスメケースか。どちらにしろ青年が持つにはいささか女の子らしすぎるような気がするが、それ以外には何の変哲もない至って普通の箱。
 しかし現在、少女は入手したてのその箱の扱いに悩んでいた。というのも、箱と共に曰く付きの警告を手渡されたからだ。


「分かりました、ならば貴女に差し上げましょう。これからこの箱は貴女に渡るべくして渡る。だからこそ先に申し上げておきます。……その箱は開けてはなりませんよ。絶対にね」


 その理由を訊いても、青年は首を横に振るだけでまったく語ろうとしなかった。銀縁の眼鏡の奥、漆黒の瞳はとても穏やかで、けれどちっとも笑っていなかった。
 なぜ開けてはならないのか。どうして開けてはならないのか。
 こんな制約に繋がれているだなんて、まるでお伽話の筋書きを大きく左右するキーアイテムのよう。“あらゆる災厄おいでませ”なパンドラの箱、はたまた“極度なエイジング効果ならおまかせ”な玉手箱だとでもいうのだろうか。
 中身がよほど大事なものなら相応の処置がされてしかるべき。だが特にストッパーも鍵もかかっていないところから察するに、大したものは入っていないのだろう。加えて、少女は鑑賞用にこの箱をねだったのではない。中に物を入れて使う予定でこの箱を譲ってもらったのだ。開けなければそもそも、使うこともできやしない。
 何より、開けるなと言われるとどうあっても開けたくなってしまうのが人の性。仕方ないじゃないか、だってそれは抗えない人間の性分なのだから。
 考えに考え抜いた末、そう結論づけた少女は、恐るおそる蓋に手をかけて、そうっと引きあげた。カチャリと留め具の結び目がほどけた瞬間、あの奥行きの深い漆黒の瞳がこちらを鋭く射抜き見たような気がしたが、好奇心に駆られている少女の意識はすぐに対象物のほうへと吸い込まれていった。


+ + + + + + + + + +


 さて、肝心の箱の中身はというと、想定外というべきか想定内というべきか、まったくの空っぽであった。派手な効果音も鳴らず、怪しげな煙も立たず、辺りが明けない闇に包まれることもなく。開閉における変化はないように思える。
 鬱積する退屈を紛らわせるような出来事が何か起こりやしないか、と、心のどこかで期待を寄せていた少女は、まあ大抵のオチはこんなものだろう、と憮然としながらも蓋を閉じた。
 いや、状況を的確に表すならば蓋を閉じようとした、である。なぜと尋ねるのは愚問、閉じようとしても蓋は元のように閉まらなかったからだ。少女によって外された留め具はどう頑張っても、どう工夫してみても噛み合わずに機嫌の悪い音を立てた。
 青年が開けるなと言ったのは、こうやって壊れて使い物にならなくなってしまうことを知っていたからなのか。それならばとんだ不良品を掴まされたものだ。どうにかして彼の居所を突き止められれば良いのに。そうしたら不良品への文句を三つや四つ並べ立ててやって、ちゃんと直してもらうんだ――


『わたしを あけたのは あなた?』


 頭の中であれやこれやと息巻いていた少女は、突然の疑問符に肩をビクリと震わせて、怖々と手元の箱を見た。
 今聞こえたものは何だ。随分とぼやけた声だった。幻聴か。そうであるに違いない。寝不足で疲れているわけでもないのに、どうしたことだろう。ともかく、いつ青年に出くわすか分からないなら常に持ち歩いた方が良さそうだ。
 愛用している小花柄のバッグに入れようとすると、今度ははっきりとした声が少女の鼓膜をノックした。


『ねえ わたしを あけたのは あなた?』


 ……確かにしゃべっている、箱が。しかも疑問を投げかけている、少女に。
 退屈を紛らわせる、どころか退屈を乗っけたたちゃぶ台を盛大にひっくり返したような出来事に、少女はしばらくポカンと大口を開けていた。幻聴だと激しく信じたいがしかし、声の源がこの箱であるのは否定できない。声は自分の手元から発されていて、しかも台詞の内容が内容だからである。
 かつてないほどに騒ぎ立てる心音に支配された緊張の中で、少女はコクリと頷いた。


『やっぱり そう』
『ならば わたしは あなたの ねがいを ひとつ かなえましょう』


 少女の緊張など意に介するはずもなく、箱はエラいことを淡々と言ってのけた。開けてはならない箱という時点ではまるでお伽話、くらいで済んでいたが、こうなるとどうもお伽話そのものに飛びこんでしまったような錯覚に陥る。


『わたしを あけたものは わたしによって ねがいを かなえられる さだめ』
『だから わたしは あなたの どんな ねがいも かなえましょう』
『これは あけられた わたしの ちかい でも ある』


 不可思議現象と正面衝突した少女。金切り声をあげ箱を落として取り乱すかと思いきや、うーん、と唸り声をあげ箱を抱えたまま考えた。
 気味が悪いと拒否することは今でなくともできる、いつだってできる。せっかく箱が願いを何でも叶えてくれると言うのだ。こんなチャンスはまたとない。ここはお伽話の主人公らしく、すんなり状況に適応して物語を進めようではないか。
 どんな願いも叶えるというのは嘘ではないのか、後でできませんと言う展開にはならないか、と問うと、箱は淡々とした調子を崩すことなく答えた。


『そくぶつてきな そんざい ゆえに わたしの ことばに うそいつわりは そんざいしえない』
『ねがいが もの であれ ひと であれ かまわない かんけいない ふかのうは ない』
『わたしは あなたの のぞむことを ひとつだけ かなえましょう』


 それなら、と少女はニンマリしながら唇を開いた。不可能がないというのが本当なら、とびきり素敵な願望にしてとびきり不可能な願望を押し付けてやろうと思ったのである。


「じゃあね、あたし……テレビに出てるアイドルなんかよりずっとカワイくてスタイルが良い、でもそれだけじゃなくて頭も良い、才色兼備な人気者の女の子になりたいな!」


 少女の申し渡しを受けた箱は、あくまでも淡々なる様子でこう告げた。


『それが あなたの ねがいならば わたしは ただ かなえるのみ』
『わたしの ちかいを やくめを ただ はたすのみ』


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 その言葉を最後に、箱はうんともすんとも喋らなくなった。相変わらず蓋は閉められず、開けっぱなしな状態だ。

 が、少女にとってそんなことはどうでもよかった。理想の自分となった少女は夢にまで見た理想の毎日を謳歌するのに忙しかったからである。
 これもお伽話効果なのか、絶妙なまでに今までの面影を残した上で愛くるしく変貌した少女を、周囲の人々はあっさりと受け入れてたちまち人気者に。中の下あたりでウロウロしていた成績が突然跳ね上がったことも手伝って、すぐに注目の的となった。
 着飾って繁華街を歩けばスカウトの声がかかり、試しに撮った写真と試しに受けたインタビュー、充実した毎日をつづるSNSが掲載された紙面は“天が二物を与えた少女だ”と反響を呼び。
 けれど少女は熱烈なスカウトをかけられながらもその道に入る話を蹴った。その事実も評判を呼びに呼んだことは、言うまでもない。


「カワイイよね!」
「色んなもの持ってて羨ましい〜、貴女みたいになってみたい!」


 そう騒がれることに最初は少しの抵抗を覚えた少女だったが、慣れてゆくうちにその喧騒を心地よく感じるようになった。
 彼らが少女を取り囲み、持ち上げ、騒ぎ立てるのは、少女がそれだけのものを備えている証。影口を叩かれても煩わしくも何ともない。妬みやっかみを受けることはすなわち、少女の優越を明らかにすることでもある。


(かわいいことを鼻にかけてるだとか、高嶺の花すぎて近寄りがたいだとか、こんなに本人に届くような距離で色々言われるのは予想外だったけど。でもかわいいのも高嶺の花なのも現実のことだもの、しょうがないよね)


 何より、嫉妬や劣等感を感じずに人と接せるようになったのが、少女にとってはとても喜ばしいことだった。
 他人の美や才に羨望の眼差しを向けていた少女は、消えた。今の少女は確実に他人を凌ぎ、かつて少女が抱いたような羨望を一身に集めるべき立場となったのだから。


+ + + + + + + + + +


 少女が願いを叶えてもらってから半年が過ぎた。やはり箱の蓋は閉まらず、だらしなく開いたままである。

 少女を大きく取り上げる波は去ったとはいえ、その人気は留まることを知らなかった。熱意あるスカウトマンは懲りずにスカウトをかけ続けているし、周りには男女を問わず必ず少女を慕う誰かがいる。SNSのフォロワーの伸びも順調だ。
 さらに見目よい男子たちから言い寄られる回数は両手両足の指を使っても数えきれないほど。テストも特別な努力をせずして高得点を叩きだし続け、同級生のみならず親族や先生からの評判も上々だ。


「なんで付き合ってくれないの? 今、彼氏いないよね?」
「オシャレだけにかまけているわけじゃなく、ちゃんと頭も良いんだもの。ウチの娘にも見習わせたいわ」


 自分の優位性から確かな自信を持ち、他人から確かに認められ、他人の憧れの存在として振る舞う充実の日々。望みどおりの少女となったままの生活は続き、これ以上の幸せはないように思えた。
 しかしその一方で、この時、少女はわずかな違和感を覚え始めていた。その正体が何であるかは、その時まったく分からなかったけれども。


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 少女が願いを叶えてもらってから、はや一年を経た。箱は一年前と同じ様相。つまりは蓋は閉まることを忘却の彼方に捨ておいたかのように開き続けているということだ。

 優れた容貌と知を持つ少女の人気は衰えることを知らず、一見すれば他の者に劣っているとは微塵も思えない。熱狂的ファンと言って過言でない人々に囲まれるのも、ファンレターがひっきりなしに届くのも至極当然の風景と化した。
 そんな中で変わってしまったものがひとつだけある。


(何よ……「オレは普通過ぎて君みたいな人には釣り合わないと思うから」って。私みたいな女の子から告白されて断るなんて……有り得ないわよ)


 自分なら絶対叶えられる恋心と、根拠のある自信を持って臨んだ告白はあっさりと破れ。どこから漏れたか知れないが噂が飛び回る――あの有名な子が告白したのに手ひどくフラれたらしいぞ、と。この醜聞に、憧れの視線の中に分かりやすく好奇や憐憫が混じり始めた。この事態を笑い話にできれば楽になれたのかもしれないが、生憎茶化して話せるだけの相手がいない。

 ――突然、ケータイのバイブレーションがSNSのコメント受信を告げる。恐るおそる確認すると、明るすぎる画面の奥に、同じアカウントからの粘着質な言葉が並ぶ。


[今噂になってる件、外野がうるさいですよね〜。でも相手に見る目がないだけなんだから、気にする必要ないですよ^^]
[そろそろ委員会の時間ですかね? 活動頑張ってください(^_-)-☆]
[制服姿もかわいいですけど、私服もかわいいですよね。この間のピンクの花柄のワンピース、似合ってました!]
[最近、このSNS上がってこない感じですかね? コメ待ってます〜ww]


(……また、同じ人からコメント。やだ、怖いな……)


 皆と同じように、どうでもいいような日々を書き、かわいく撮れた写真を上げていただけ。委員会の活動日も時間も記していないし、ピンクの花柄のワンピースを着て出かけた日は誰にも見知った人には会わなかった。それなのに。


(誰かに相談したいし愚痴を言いたい……でもその話がどう噂されるか分からない。SNSも“誰か”が見ているし迂闊なことは書けない。どうしたら良いんだろう……)


 ひとつだけ変わってしまったもの。少女のかわいらしい顔からはいつの間にか、笑みが消え失せていた。
 もちろん、取り巻きとの会話の流れや内容に口角を上げることも、笑声をこぼすこともあるにはある。だが他人に心を開き、心から信頼できる己の理解者と笑いあう、そんな人間として単純で当たり前の“笑い”ができなくなってしまったのだ。


「今はまだでもそのうち芸能界入るんでしょ? サインちょうだいよ。あ、家族も欲しがってるから4枚ね!」
「ねえねえ、ここ教えてくれない? あーあ、必死こいて勉強しなくても頭良いなんてズルいわー」


 そんな何も知らない他人の、羨みの褒め言葉もいつしか雑音混じりに聞こえるようになって、曖昧に頷くぐらいの反応しか返せない。
 そうなってしまった最たる理由は、半年前に感じ始めていた違和感が凝りに凝り固まったところに端を発する。少女はもうはっきりとそのことを意識し、理解していた。
 けれど違和感の正体については深く追究することをしなかった。と言うよりは、違和感はそれが自然の摂理であるかのごとく少女の心身を蝕んでいたが故に、その正体を掘り下げようとする気力を少女から奪っていたのである。
 今や少女をただ衝き動かすものは、“この結果は誰もが羨むような少女になりたいと願った自分が選んだ道なのだから”、という責任を果たす覚悟か。“やり直すことができない以上、もうどうでもいい”、という自棄にも似た諦めか。
 だからこそ少女は今日も群集の真ん中でひとり、青年の瞳を思い返しては、人知れず指を組み願うのだろう。

 あの箱を閉めて、そして何もかもがまっさらに、元通りになることを。






<Z その箱はけてはなりません>


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