【 Intuito 】


 不意に目が覚めて、自分という箱の内に自分という核が埋め戻される。
 そこは見慣れない、しんとした、果てなき常闇で塗り潰された空間。一面の黒と、母が子を慈しむかのような穏やかな静けさに五感を牛耳られた世界。何かの閊えを取っ払ったかのように身体は楽だが、何も見えないし、何も聴こえない。自分の存在は確かに感じられるが、どんなに気を探っても、他のどんな存在も感じられない。ここに自分がいるということ以外は何も分からない。
 何も分からないが、ここには身を脅かすものも仇なすものも無いと直感で覚ったからだろうか、まったく恐怖は感じなかった。それどころか不思議で異様な高揚感さえあった。何も分かりやしないのに。


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 ぼんやりとただ座り続けるには動悸がうるさくて、前後左右、変わり映えのない暗闇の中をふらふらと歩きだす。真っ暗で見えはしないが、地べたはしっかりしていて足取りも軽い。
 するとその機会を見計らったかのように、ぼんやりと光る球体がふわふわと近くに寄ってきた。得体のしれないものだが、正体が解せないこれにも恐怖は感じない。
 そっと手に乗せてよく見てみると、球体は小さく渦を巻き、また白にほんのりと紅を挿したようなとても淡い桃色をしていた。中を覗き込んでみれば渦の中心部には映像のようなものが切れ間なく流れている。
 その映像には、見知らぬ小さな女の子が友達と思しき他の子どもたちと仲良く遊ぶ姿があった。音は聴こえないがきっと無邪気な笑い声で溢れているのだろう。どんな状況かは分からないものの、見ているこちらまで微笑ましくなってくる。


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 もっとよく見てみたいと身を乗り出すと、渦巻きは細かな粒子が液体に馴染むように、真っ黒なホットコーヒーに角砂糖が一瞬で溶けていくように、さあっと消えてしまった。
 その代わりなのか何なのか、同じくぼんやりと光る、けれど今度は先程の色味に少し白を足したような色の新しい球体が目の前をちらついた。
 中にはやはり映像が流れていた。主人公は前と同じ女の子、また友達と一緒に遊んだり話したりしているようだ。しかしその笑顔にはやや陰りが見える。どんな会話をしているのかは分からない。喧嘩をしたわけではなさそうだ。表はどうだか知れないが、裏では何かに違和感を覚えて戸惑っている、そんな感じがする。


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 次に現れた光の渦巻きは、桃色というよりは白に近かった。中に映るのはあの女の子がひとり、少し成長して、髪も伸びたようだ。腫れた目は赤に赤を重ねたものよりも赤い。
 けれども涙は流れるどころか一滴も浮かんだ気配すらない。直感的には、決意がみなぎっているかのような印象を受ける。その瞳は淀みで埋め尽くされて、もはやひとつの色に綺麗に纏まっていた。曖昧な色もここまで集まれば純然たる色になるのか、これは歴史に残る新発見だ、などと場違いな感想を抱くと同時、少女は開口したようだった。
 かすかに何か聞こえ始めたものの、相変わらず内容はまったく分からない。分からないことが続きいい加減つまらなくなってきて、自動再生される映像から目線を外した。
 ちゃんと言うならば、外そうとした、が正しい。いくら見ないようにしようとしても身体が強張り、私は渦巻きから目を逸らすことができなかったからだ。
 真っ暗闇のシアターで、どうやら私は渦巻きのスクリーンを前にするただひとりの観客と定められてしまったようだ。明るく元気が出る映像でもないのに延々と付き合わねばならないとはツイていない。が、だからといって特別不快感はなく、高揚した気分は変わらないままだ。


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 せめて内容が好転するよう微かに期待を寄せて、次の渦を待つ。
 ほどなく出てきたそれに、私は思わず目を見張った。渦の色は、先の白とは真反対の、背景の闇とは質を異にする鮮烈な黒。濁り沈み込む黒ではなく、くっきりと浮かび上がる黒だ。
 中身は、淫靡なネオンが跋扈する路地に佇む、青年の後ろ姿だった。漆黒の長髪、漆黒の外套、漆黒の手袋、漆黒の皮靴。漆黒のベルトに挿された銃だけが光沢のある白銀で、只ならぬ雰囲気を醸し出している。
 そして彼を遠くから眺める、例の少女。声をかけるでもなければ逡巡しているわけでもなさそうだ。馬鹿のひとつ覚えのように微動だにせず突っ立っているのは、戦慄いているからか、それとも見惚れているからか。
 青年も青年で、さながら血の通わない人形のようにぴくりとも動かない。いくらか静の時間を経てようやく、彼はゆっくりと、本当にゆっくりと振り向こうとした。ストレートの髪が揺れて、隠されていた輪郭が、双瞳が垣間見えようかという時。


<直視しては いけない>


 そんな反射的な制止が、生々しいズブリという音を立てて鼓膜に刺さったような気がして、私は勢いよく渦から顔を背けた。
 ちゃんと言うならば、背けようとした、が正しい。結局私は渦巻きから目を逸らすことができなかったからだ。
 幸か不幸か、彼の双瞳とかちあう寸前に、渦は霧散した。黒が黒に溶けていくという、現実的に考えて滅多に出くわせないであろう様子を見届けながら、最後まで中を覗けなかったのはちょっと惜しかったかなと腕を組む。まあどこかの誰かさんからわざわざ直視するなと釘を刺されてしまったことだ。しがない観客の私も目にすべきものではなかったのかもしれない。


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 そう納得させて周りに目を配ると、これまでのものより一際大きな渦が、献上品として差し出されるかのように静々と眼前にやってきた。色は、何物にも埋没しないあの黒だ。


<唯一無二の>

<解っていた、>

<最後にして最大の>

<互いに直視する、その時は、>


 今回は見る前からやたらと雑音が酷い。しかも途切れ途切れでどれもひとつの内容として成立していないため、聞かされているこちらは訳が分からない。
 分からないことだらけもここまでくると、いっそ開き直りの精神が湧いてくる。網膜に絵を映そうと渦に身体を寄せれば、引力が働いているのかぐいぐいと引き込まれる感覚に襲われる。


<唯一無二の 対翼>

<解っていた、そうなるべきは他ならぬ自分だと>

<最後にして最大の賭けは大成功に終わるだろう>

<私と彼が互いに直視する、その時は、対翼がもがれ散る時だ>


 単語の羅列にすぎなかった雑音が、入り込めば入り込むほどクリアに。ここにきてようやく、私はあることを予感しはじめた。その予感の真偽を突きつめたいと望む自分がいて、しかしその予感をくだらないと一笑に伏す自分がいて、その予感を認めたくないと喚く自分がいて、それらがない交ぜになって一層予感の不穏さを高めている。
 次第に引っ張られるというよりは、底無しの穴に真っ逆さまに急降下していく感覚。兎を追ったアリスは可笑しな可笑しな不思議の国に行き着いたけれど、渦を追った私はどこに行き着くのだろう。
 止まらないどころか加速する落下速度。だのに風の抵抗という抵抗をまったく受けない私の目は、否応なしに渦の真ん中に視線の軸を重ねた。
 一回の瞬きさえできない空気の中、秒単位では測れないほどの速さで掠めるのは、定められた白銀の銃、飛び散った血の赤……捉えてしまった漆黒の双眸。


<さよなら、だよ>


 そして何よりもはっきりと脳髄に響いたのは、別離の言葉。


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「今までにも感受性の低い子たちは山ほどいたけれど。これほどまでに鈍い子はなかなかお目にかかれないね、最後の“回顧灯”に差しかかった時点でもまだ気付いていなかったなんて」
「それに君ほど“回顧灯”の数が少ない子も実に珍しい。魂に刻まれるほどの深い出来事がよほど少なかったか、はたまた多くの出来事があれど魂が記憶するに値しないとそれらを突っぱねてきたか?」
「まあ“回顧灯”の意義は量にはない、心配は無用だよ。これに求められるのは質、いわば内容なのだから」
「暗闇の道なき道で、何にも邪魔されることなく、自分の魂が抱え込んできた自分の来し方を自分ひとりで見つめる。ここに来てしまった以上は、何人たりとも、如何なる理由があろうとも、目を逸らすことは許されない。皆等しく、“回顧灯”のすべてを振り返って、見届ける義務が課せられる。ここから先に往く者として、自分のことは何でも自分が分かっていなくては。自分こそが自分の最高の理解者でなくては。天国にしろ地獄にしろそれ以外にしろ、己を見失っても彷徨い続けられるほどに生温い場所ではないから余計に、ね」
「“分からないことだらけ”でここに進んできたお嬢ちゃん。どれだけくだらなくとも、認めたくなくとも、“分からない”と逃げ続けることはできないよ。君は自分の生前の姿を正しく受け入れなくてはならない。さらにそれを正しく理解したうえで審判を受けなければならない」
「……さあ、気付きの時だ」


 それは、魔法の呪文。
 呆然とへたりこんでいた感覚は途端に研ぎ澄まされて、曖昧模糊としていた意識は水底から引き上げられて。
 渦、いや、“回顧灯”で見てきた色々な、いろいろな絵と音が鋭利な刃物となって、四方八方から私を貫いていく。


(そうか、あれは。あの女の子はすべて、私だったのか……)


 ごちゃごちゃに混ぜられた自分の姿を受け止めるのに必死で、受容して咀嚼するなど程遠い夢物語のように思える。自分を分かるということはこんなにも大仰なことだったのだろうか。そんな混沌とした中でも、直感として最初の最初に、世の真理であるかのごとく当たり前に、自然に受け入れられたのは。
 私は、          ということだった。




<[ する者に殺された、>


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